ジューク音楽塾# 鮎川誠ロック塾 第7章
8月20日 『ルート47。鮎川誠、シーナとロックの旅。ロンドン編&ミシシッピ編』
2016年8月20日8PM〜
ジューク・ジョイント(福岡・舞鶴)
講義・テキスト執筆 鮎川誠
進行・テキスト監修 松本康
主催 自由区倶楽部(CLUB JUKE)
協力 ロケットダクション
印刷 JUKE'S Printing System
【ご挨拶】
いつもロック塾に集まっていただきありがとうございます。今回の塾第七回は、ジュークジョイント・ 松本康塾長の提案をいただき、『ルート47。鮎川誠、シーナとロックの旅。ロンドン編&ミシシッピ編』というテーマで話をします。今日のBGMは、そのミシシッピのクラークスディールに滞在した時ブルース研究家のジム・オニールがやっているスタックハウスというレコード屋さんに立ち寄った時、旅の思い出に買った「CROSSROADS」というオランダのコンピレーション盤をメインにプレイします。今聴いてもキース・リチャード、ジミ・ヘンドリックス、アルバート・コリンズ、ジョン・リー、ライトニン、 Dr.ジョン、ロバジョン、レナードスキナード、ジョン・キャンベル、、 (1993年、その年にリリースされた新譜だったのですね、)とてもぶっ飛んだ選曲の素敵な、すごいコンピレーションアルバムです。
さて、今回の講義はいつもと趣向を変えて、その時俺とシーナがお互いで撮影しあった写真やビデオをプロジェクターに流しながらの
話にしたいと思います。写真はこれまで数回、写真展もやったり、鮎川のコンピレーション盤「THE HOUSE OF THE BLUES(JIMCO盤)」やサンハウスの「HIGHWAY 61」のアルバムジャケットに使ったりでおなじみのやつもありますが、
ビデオはこれまで一度も公開したことのないレアなものです。というか、
本人も長い間しまい込んでいて見る機会もなくお蔵入りされていた映像です。気の利いた編集でも出来ればよかったのですが、10時間を超える映像のどこをどう切り取るか、ざざーっと見返しても途方もない時間と編集センスが必要で、映像に関しては拙いわしのスキルでは到底ダイジェストに仕上げることはできませんでした。
当日は行き当たりばったりで映像をお見せすることになり、お見苦しいことになるのは必至ですが、どうぞご勘弁を願いたく思っています。
また、これまで、HWY61やミシシッピの旅を記した文章をホームページに掲載していますので、パンフレットに一部、転載をしています。お時間があるときに読んでいただければ幸いです。
それでは、鮎川ロック塾をお楽しみに。
SHEENA+AYUKAWA's TRIP NOTE
Sheena & Ayukawa's BLUES QUEST
Mississippi PIX SLIDE SHOW
BLUES QUEST MISSISSIPPI 前書き
「ハイウェイ61・リヴィジティッド」というボブ・ディランの5枚目にあたる最高のアルバムがある。「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」という4枚目のアルバムがボブ・ディランとロックン・ロールの出合いがしらの1枚とすれば、「ハイウェイ61」はそれを完成させたアルバムだ。シングルカットされた「ライク・ア・ローリング・ストーン」が全米のヒットチャートに載って、ラジオでもばんばん流れていたのが65年。その「ハイウェイ61」という言葉から僕はブルースに出会い、フレッド・マクダウェルの同名異曲は、後に作ったバンド初期のサンハウスの必殺のオープニング・ナンバーだった。僕にとっては後の人生を左右する、いや、いまだに影響されているキーワードだ。
出典 「DOS/V ブルース」鮎川誠著 より B.G.M Playlist 61 |
#1デルタブルースの町へコネクトアメリカ南部のミシシッピ州にクラークスデールという町がある。デルタ・ブルースの故郷といわれている町だ。この町に旅をすることが長い間、僕の夢だった。伝説のブルースマン、ロバート・ジョンソンが悪魔に魂を売った場所といわれている交差点がこの町にあるからだ。 ボブ・ディランの5枚目のアルバム『ハイウェイ61・リヴィジティッド』で有名なハイウェイ61は、メキシコ湾岸のニューオリンズの町から北上して、クラークスデールを通過し、メンフィスに至る。その61号線の東側を並行するように走る49号線がこの町で交差する。 月のない深夜、ロバート・ジョンソンはギターを手に、この交差点に立ち、やがて、やってきた悪魔に魂を売って、かわりに、あの信じられないようなテクニックと素晴らしい声を手に入れることができた。そういう伝説がある。僕はこの交差点に立ちたかった。 そして、91年、僕とシーナはついにクラークスデールへの旅を決行し、この交差点に立つことができた。ニューオリンズからグレイハウンドバスで旅をしたのだが、それはどうしても銀色に光るグレイハウンドバスでなければならなかった。 レンタカーでも飛行機でも、この旅にはふさわしくない。ブルースの故郷、クラークスデール、そして、伝説のクロスロードを訪ねる旅は、グレイハウンドバスでなければならない。そのため、僕はミシシッピ州政府の東京事務所に出かけていって、資料を山ほどもらい、周到な準備をした。カメラはもちろん、DATもビデオカメラも荷物に詰め込んだ。 感動したのは僕らがブルースの故郷を訪ねるため、クラークスデールに出かけると知ると、その関係の資料をたくさん提供してくれたことだ。これにはちょっと感動した。日本の政府や都道府県の事務所で、そんな資料を持っているところがあるだろうか。アメリカというところは、それほどブルースを自分たちの文化として大切にしているのだ。 インターネット上でもブルースのサイトは星の数ほどある。まったく圧倒されるほどたくさんある。 クラークスデールにはデルタブルース・ミュージアムがあり、ホームページも持っている。ページのつくりとしては、それほど充実しているわけではない。しかし、いつでも、世界中からデルタブルースの故郷のミュージアムにコネクトできるということは素晴らしいと思う。 僕がパソコンを使いはじめたのは二年前の夏で、家にパソコンが来てから数日後には、インターネットも使いはじめた。そして、デルタブルース・ミュージアムのページを見た時は何とも言えない感動があった。 インターネットでブルースへの旅に出かけようと思うなら、僕はぜひ、クラークスデールのデルタブルース・ミュージアムのページから、旅を始めることをおすすめしたい。そこには星の数ほどあるブルースのサイトへの入り口となるリンクもある。(続く)
#2天国からベッシー・スミスのスピリット先週は、アメリカ南部のミシシッピ州にあるデルタ・ブルースの故郷、クラークスデールにやってきたところまで報告した。 ニューオーリーンズから61号線を朝発のグレイハウンド・バスで11時間かけて北上し、いっきに乗り込んだこの町で、僕とシーナは、以前から泊まってみたかったホテルに泊まった。ホテルの名前はリバーサイド・ホテル。かつて、交通事故で瀕死のベッシースミスを、最後に受け入れた病院だった。 決して、高級なホテルではない。それどころか、一泊25ドルの安宿だ。ドアを開けてホールに入ると、その暗さに一瞬、ひるんでしまう人もいるかもしれない。ほんとに暗い。じっとりとした古い木のにおい。そして、脇のソファには、バーボンでも飲みすぎて酔いつぶれているのか、一人の男がだらしなく眠りこけていた。半ドアの奥の部屋からはTVのフットボールの中継がうるさく聞こえ、そこの住人は家財道具も持ち込んで相当長く住み込んでいるふうだ。何があっても不思議ではないこのホテルで、僕は思わずつぶやいた。 「これだよ。こうでなくちゃ!」 このホテルは40年代から、沢山の有名無名のブルースマンが泊まったホテルだ。そのため、ブルース・ホテルとも呼ばれている。 南部のブルースマンの主な活動舞台は、町外れの黒人専用のクラブだった。クラブといっても、そんなに立派なものではない。たいてい、掘っ建て小屋(チキンシャック)のような粗末な建物で、みんなが集まりやすい十字路の近くにあった。だからクロスロード(十字路)はブルースの大事なキーワードのひとつなのだ。南部で生まれたブルースがいくつものクロスロードを越えて、50年代のテネシー州メンフィスでロックンロールが誕生したのだ。 そういう建物は、名前もクラブなどという洒落た呼び方のものではなくて、ジューク・ジョイントと呼ばれていた。たぶん、「ミュージック・ジョイント」を短くして、そう呼ばれたのだろう。 ブルースマンは、ジューク・ジョイントからジューク・ジョイントへと流れていき、旅の宿はリバーサイド・ホテルのような気楽な宿だった。 ブルースの女帝と言わるベッシー・スミスはここで息を引き取った。ベッシー・スミスはブルースの歴史を開いた最初の偉大な女性だ。1920年代から30年代にかけて、彼女のブルースは白人たちを魅了し、映画「セントルイス・ブルース」にも出演し、彼女のレコードは売れに売れた。しかし、1937年、恋人と一緒にクラークスデールのクロスロードのわずか手前のハイウェイ61号線で彼女の車が交通事故にあい、ベッシー・スミスは天国へ行ってしまった。クラークスデールは偉大なブルース歌手、ベッシー・スミスの最後の地でもあったのだ。 都会では社交界の花形でも、ここミシシッピーでは、黒人ということで町のいくつかの病院から門前払いをされた挙げ句の悲しい出来事だった。リバーサイド・ホテルには、今でも、彼女が最後の時をすごした部屋だけは客室として使わずに、大切に残されている。僕らもその部屋を見せてもらった。薄いブルーのシーツがかけられたベッドのわきにマグノリアの花が花瓶に飾られていた。僕らは心からの冥福を祈り、ベッシーのスピリットを、そしてブルース・パワーを分けてもらった。(続く) #3白いリンカーンでクルーズ1937年、ミシシッピ州のクラークスデールで死んだ偉大なブルース歌手、ベッシー・スミスのブルースは、いまでは、クラシック・ブルースと分類されているが、今日のロックに最も大きな影響を与えたシカゴ・ブルースの源をたどると、行き着く先にあるのがデルタ・ブルースで、ここがその発祥の地だ。 電話もテレビもなかったころから、ブルースはアフロ・アメリカンの新聞であり、テレビだった。普段の生活の中のいろいろな出来事や思いが次々にブルースにされ、すごいスピードで彼らの間を伝わっていったのだ。 たとえば、トム・ラッシェン・ブルースという歌がある。これはトム・ラッシェンという残酷な保安官のことを歌ったブルースだ。トム・ラッシェンに痛めつけられた話を、デルタ・ブルースの創始者(といわれる)、チャーリー・パットンが歌にしたのだ。 綿花畑が害虫(ボーウィービル)で全滅すれば、その害虫の名前をタイトルにしたブルース(ミシシッピー・ボーウィービル・ブルース)が生まれ、洪水があれば、その洪水を歌にしたハイライズ・ウォーターというブルースが生まれた。 彼らの生活の中で次々に生まれるブルースは、みんなの間を伝わっていくうちに、名もないブルースマンたちによって、少しずつ手を加えられ、素晴らしいブルースになっていった。著作権などという面倒なことを言う人間はいなかった。 それと同じようなことが、いま、インターネットの世界で起きているのだと思う。みんなが自由に自分の思っていること、感じていることを発信し、互いに影響しあいながら、大きなひとつの世界を形作っているのがインターネットだ。 黒人の歌がレコードになったのは、エジソンがレコードを発明してからしばらくたった1920年代のことで、彼らのレコードは黒人向けのマーケットに限定され、レース・レコードと呼ばれた。 最初は女性歌手のブルースからレコード化されていった。ベッシー・スミスのブルースもそのひとつだ。だから、誕生のいきさつからしても、ブルースは反体制的だったわけで、その魂が60年代の公民権運動に引き継がれ、また、ロックに引き継がれてきたのだ。 そんなブルースの歴史に深く関わっているクラークスデールの町で、シーナと僕はサザン・ホスピタリティも教えられた。サザン・ホスピタリティというのは、アメリカ南部の人々の素朴な親切のことだ。 半世紀のブルースの歴史と逸話がきざみこまれた、Z.L.ヒルおばあちゃんの経営するリバーサイド・ホテルで、翌朝、僕は自転車を借りたいと相談してみた。自転車で町をあちこち見てまわろうと思ったのだ。行ってみたいところがいっぱいあった。だが、話をきいてくれたホテルのオーナーの息子のラッツは、初対面の僕らにこう言った。 「自転車なんかいらないさ。俺の車を使えばいい。俺が案内してやるよ」 でも、多分、車はくたびれたピックアップ・トラックだろうな。僕は、何となく、そんな想像をしたのだが、約束通りその日の午後、彼が転がしてきた車はピカピカの真っ白なリンカーンだった。シーナは助手席、僕はその白いリンカーンの後部座席にカメラと8mmビデオを携えて、町を案内してもらったのだった。そして、彼の口癖がいかしていた。 「エブリバディ・ノウズ・ミー(町で俺を知らない奴はいないさ!!)」 カーラジオを地元の伝説のブルース専門局WROXにセットしてもらい、ブルース・クルーズがスタートした。そして彼は僕らを、行く先々で「東京からやってきた俺の新しい友達だ」と自慢げに紹介してまわってくれた。(続く)
#4ティナ・ターナーを知ってるだろデルタブルースの故郷、クラークスデールの町は、ブルースが今も生きている町だ。偉大な女性ブルース歌手、ベッシー・スミスが息を引き取った部屋が今も保存されているリバーサイド・ホテル。そのホテルのオーナーの息子のラッツが、自慢の真っ白なリンカーンで僕らを案内しながら、たとえば、こんなことを教えてくれる。 「今通っているこの通りは、アーリー・ライト通りという名前なんだ。アーリーはクラークスデールの放送局WROXで何十年もブルースの番組のDJをしていた男だよ」 それだけでも、僕らは嬉しくなってしまう。この町以外のどこに、ブルース番組のDJの名前を通りの名前にしてしまう町があるだろうか。 ラッツは珍しい人にも会わせてくれた。 「アイク&ティナ・ターナーは知ってるだろ。アイクとティナもこの町で育ったし、アイクと一緒にやっていた男もそうだ。そいつの弟は今ごろ、どこか、そのへんで酔っ払っているはずだから、今から紹介してやるよ」 アイクと一緒にやっていたレイモンド・ヒルなら僕も知っている。サックス吹きで、アイクの参謀のような男だ。 彼の弟はラッツの言った通りに、確かに酔っ払っていた。数人の常連がいるだけの夜更けのジューク・ジョイント(この辺ではバンドが入るのは土日のみだ)で会ったのだが、僕らが日本から来たと知ると、すごく喜んでくれた。そして、家に戻ってティナのことを書いた本を持ち出してきた。 それは最近映画化され日本でも公開された「ティナ」の、ペーパーバック版で、「ほら、ここを見ろよ。ここに俺の兄貴のことが出ているぜ」と自慢そうにページを開いて見せた。何度もそのページを開いたのだろう。本のページに癖がついていた。 もしも、僕がこの町に生まれ、この町で育っていたら、今ごろ、何をしていただろうか。クラークスデールの町で、この町の空気を吸っていると、ふと、そんな気になる。 実際の僕は博多で育ち、最初の音楽との出会いはローリング・ストーンズとビートルズだった。そこから僕の前にロックの世界が広がり、やがて、ブルースが僕の心をとらえることになった。 ブルースとは何か。アメリカ南部の綿花畑で生まれたブルースは、今ではアメリカだけのものではない。20世紀の音楽に大きな影響を与えた凄い音楽だ。 ブルースの分類の仕方はいろいろある。そのひとつに第二次大戦前のブルースと大戦後ブルースという分け方がある。これは電気楽器が登場する前と登場した後という分け方にそのまま重なるし、南部が中心のカントリーブルースと北部のシカゴで生まれたシカゴブルース、またはアーバン・ブルースという分け方にも重なる。 戦前のカントリー・ブルースを代表するのがロバート・ジョンソンであり、ロバート・ジョンソンの後を継いて登場したのがマディ・ウォーターズということになる。のちにシカゴへ出て出世したマディ・ウォーターズは、ロバート・ジョンソンが急死(毒殺されたという話もある)したため、ロバート・ジョンソンの代役としてレコーディングを行い、そこからチャンスを掴んだ男だ。 クラークスディールから少し南へ下った、マディ・ウォーターズの生まれた小さな町、ローリング・フォークの、ハイウェイ61号線沿いには、ここを通るグレイハウンドバスからもよく見えるように、彼がここの生まれだという大きな看板が立っている。 彼の一家はクラークスデールの近郊のストゥバール農場の小作人だった。後に、その丸太小屋から取った木で2本のギターが作られて、ひとつはテキサスの人気バンド、ZZトップが持っている。そして、もうひとつのギターが、クラークスデールのブルース・ミュージアムに寄贈、展示されている。(続く) #5プレスリーを産んだ粋な男6月のクラークスデールは暑い。しかし、どこか、爽やかな暑さだ。 アメリカ南部のミシシッピー州なのだから、蒸し暑いだろうと覚悟していたのに、あの爽やかさはちょっと意外だった。そして、草や樹木の緑の豊かなこと。 この町では、ほとんど毎日、激しいスコールが来る。マディソン郡の橋という映画に、激しい雨のシーンがあったけど、まさにあの雨だ。そして雨があがれば、爽やかな風が吹いてくる。 この雨と豊かな土地が、南部の綿花を育て、クラークスデールは、南部の綿花の一大集散地になった。しかし、今では綿花畑は少なくなり、クラークスデールの繁栄は昔話となった。 今は廃線となっている鉄道の線路のすぐ南に、イセクィーナ(ISSAQUEENA、、発音がとても難しかった)という、かつてはブルース通りと言われた通りがあった。そこでは、通りの両側に沢山のブルースマンが立ち、ブルースを歌っていたという。20世紀初頭には「ザ・ニュー・ワールド」とまで呼ばれたその通りも、今では、すっかりさびれて、昼間でもほとんど人影を見ない。 デルタ・ブルース・ミュージアムも、本当は、町の図書館の2階を間借りしている、小さな博物館だ。ここに来れば、ブルースのことは何でもわかるという場所ではない。ブルースについて調べたいのなら、むしろ、他の場所のほうがいいと思う。本屋に行けば、膨大な数のブルースの本があるし、インターネットでも、かなりのことを調べることができる。 だが、僕らは、この小さな博物館に来ることができたというだけで、幸せだった。 恐竜の骨の化石やインディアンの土器などが展示されている1階のフロアを抜けて、壁にギターハモニカが展示された階段をあがると、そこがデルタ・ブルース・ミュージアムだ。 階段をあがったところに、バースツールにちょこんと腰をかけ、ギブソンのレスポールを抱えたマディ・ウォーターズが笑顔で出迎えてくれる。ただし、このマディは蝋人形だ。 お客は僕とシーナの他には誰もいないようだった。床にコツコと僕らの靴音が響いた。 デルタ・ブルース・ミュージアムは、繁栄が通り過ぎていった小さな南部の町の小さな博物館でしかないが、世界中のブルース・ファンにとっては憧れの場所だ。いま、僕らはそこにいる。そこにいることが僕らには嬉しかった。
僕らはクラークスデールの後、ふたたびハイウェイ61号線を北上してメンフィスに向かう。そこにはエルビス・プレスリーを世に出し、ロックンロールの生みの親と言われるたサン・レコードがある。 #6冷たいビールに骨太のロック僕とシーナはクラークスデールを後にして、ハイウェイ61をグレーハウンド・バスで北上し、次の目的地のメンフィスに向かった。メンフィスは、僕らにとってはサン・レコードの町であり、エルビスの町だ。 メンフィスでは、申し合わせてナッシュビルから駆けつけた友人のジム・ボールが待ち構えていて、僕らを案内してくれた。ジムはニューヨークのレコーディング・エンジニアで、僕らのレコーディングをやってくれてからの付き合いだ。メンフィスは一泊だけの滞在、しかも、着いたのは夜。忙しいメンフィスの夜になってしまったが、ジムの運転する車でサン・レコードのスタジオやエルビスのグレースランドを見てまわった。 サン・スタジオは今は観光客用に残っているだけで、もうレコーディングには使われていない。グレースランドにも、もうエルビスはいない。グレースランドの、音符をあしらった鉄の門の向こうに、木立のかげからライト・アップされた屋敷がゆらゆら見えた。エルビス・プレスリー・ブールバードと名づけられた大きな通りを挟んで、エルビスの自家用機たちが並んでいる。そのうちの一機は遊び部屋として娘、リサ・マリーに買い与えたやつだ。彼の信条、TCB(Taking Care of Business)と書かれた大きな垂直尾翼が見えた。あの飛行機ももう二度と飛ぶことはないだろう。 エルビスがデビューしたサン・レコードは僕らにとっては大事なレコード会社だ。ブルースの歴史を語る時は忘れることができない。同じように、シカゴのチェス・レコードもブルースの歴史の中で重要な役割を果たした。しかし、チェス・レコードも今は活動していない。 サンとチェス。この二つのレコード会社がもう存在しなくなっているのは、とても残念なことだが、それがブルースなのだ。ブルースは常に変わり続けてきたし、今も、生きて、変化を続けている。 ミシシッピ・デルタの唯一にして最大の都市メンフィスは戦前の南部各地で生まれたブルースが結集した街だ。その中心となったビール・ストリートの両側には、ミュージシャンの間で有名なBBキングの店をはじめとして、今でもたくさんのクラブが軒をならべてひしめいている。深夜、看板まぎわの一軒で僕らは冷たいビールと生バンドがプレイする骨太なブルース・ロックを堪能した。 「メンフィスでベロンベロンにジンずけの酒場の女王に出会った」というのはローリング・ストーンズのヒット曲「ホンキー・トンク・ウィメン」の歌いだしだが、今でもここはロックフリークのメッカだ。ブルース、ゴスペル、カントリー、ロカビリー、ソウルそしてロックンロール、ここはアメリカの音楽のジャンルと歴史のクロスロードの町だ。 60年代、ここメンフィスに興ったスタックス・レコードを拠点に活躍した、史上初の白人と黒人の混成ロック・バンド「ブッカー・T&MG’s」は自ら「グリーン・オニオン」などの大ヒットをとばすとともに、オーティス・レディング、ウィルソン・ピケットなどと組み最高のソウル・ミュージックを生み続けた。僕のあこがれのギタリスト、スティーブ・クロッパーを擁したその「MG’s」の名前の由来は「メンフィス・グループ・サウンド」の頭文字をとったものだ。そして、70年代にかけてのハードロックの全盛期には世界の有名・無名のバンドがメンフィスのサウンドを求めてレコーディングにやってきたものだった。 僕らにとってたった一晩のメンフィスはあまりにも短すぎた。早朝空港へむかうタクシーから見える、町の中心街の、まるで映画のセットのように、時が止まったまま保存されているかのような古いアメリカの建築様式の美しい町並みを見ながら、僕らはメンフィスとハイウェイ61の再訪を心に誓っていた。 |
Sheena's Hwy61 Gallery @Jam - ハイウェイ61の写真展
Sheena + Makoto're back from Chicago @ Stones. PictureREPORT 1997
■鮎川誠 1948年福岡県久留米市生ま れ。九州大学農学部卒。1970年からサンハウスで活動、78年 「シーナ&ロケッツ」結成。ギタ リスト、作曲家。97年1月、 パソコンとの出逢いからホーム ページをつくるまでを描いた著書 「DOS/Vブルース」(幻冬舎) を出版。 「シーナ&ロケッツ」のホームページ [http://rokkets.com/] |
僕が初めて出会ったチェス・レコードは、「ベスト・オブ・マディ・ウォーターズ」です。日本でもブルースの気運が高まる中、ビクター・レコードからシリーズで発売されたソウル・アンド・ブルース・コレクションズの第二弾がこのアルバムでした。待ちにまって、ようやく手に入れたのは1969年11月5日でした。
これは、日本独自の見事な選曲のベスト盤で、福田一郎/中村とうよう/桜井ユタカ 諸先生の解説も最高でした。これが僕のブルースの原点です。 |