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ジューク音楽塾#14鮎川誠ロック塾 第8章
『フライト47。鮎川誠、シーナとロックの旅。ニューヨーク編&ロンドン編』

2016年10月27日8PM〜
ジューク・ジョイント(福岡・舞鶴)
講義・テキスト執筆 鮎川誠
進行・テキスト監修 松本康
主催 自由区倶楽部(CLUB JUKE)
協力 ロケットダクション
印刷 JUKE'S Printing System

【ご挨拶】

こんにちは。シーナ&ロケッツの鮎川誠です。
ロック塾にお集まりいただきありがとう。前回は「ルート47」と題して、シーナと二人で旅したミシシッピ・ハイウェイ61の話を二人で撮り合った8oビデオムービーを流しながら進めました。ビデオタイムが長くなり、当初予定していた前半Hwy61、後半LONDON SESSIONが大幅に狂ってしまい、後半を今回のロック塾第8回「NY & LONDON」として改めてテーマを組みなおしました。今回はまず塾長・松本康の告知文から見ていただきたい。
>[ジューク音楽塾 特別講義、鮎川誠塾第8回]
『フライト47。鮎川誠、シーナとロックの旅。ニューヨーク編&ロンドン編』シーナ&ザ・ロケッツの活動まっただ中、鮎川誠とシーナは1988年にS+Rの『HAPPY HOUSE』録音のためニューヨークに、1993年に鮎川誠の『LONDON SESSIONS』のためにロンドンに滞在した。今回はその二つのロックの「現場」への旅でのエピソードなどをたっぷり語ってもらいます。写真多数あり、動画も予定。<

ということで今日は僕とシーナがあこがれの地を旅した旅行者としての思い出話と、その上にミュージシャンとしてレコーディングの現場でいろいろな出来事に遭遇したその体験談を出来る限り当時のことを思いだしながら話を進めますのでどうぞよろしくおねがいします。

[HAPPY HOUSE IN N.Y のレコーディングがどうして実現したか]
1988年はシーナ&ロケッツの結成10年目でした。それを口実に俺の念願だった夢のニューヨーク・レコーディングをビクターレコードが賛同してくれて実現しました。前年に友人の音楽ライター伊丹由宇と二人で連載コラムをやってた「FM FAN」の特集で鮎川と伊丹はニューヨーク滞在レポートのため1週間ほど渡米しました。旧友カメラマンのボブ・グルーエンと再会して彼が喜んでニューヨークを案内してくれて一気に世界が広がりました。だってボブはジョーイもラモーンズもパティ・スミスもデビー・ハリーもジョニーサンダース、デビッド・ヨハンセンのニューヨークドールズもイギーポップもアラン・ベガもプラズマティックスもピストルズもクラッシュも、ジョンとヨーコにダコタハウスを見つけさしたのも彼だし、キースもロニー・スペクターもボウイもルーリードもボブ・ディランもみんな古くからの友達なんです。俺がどうニューヨークを過ごしたかは、RokketwebにFM Fanの記事をコピーして読めるようにしていますので、興味がある方はご覧ください。最後にニューヨークを離れる時、強く思ったのが次はシーナとロケッツで帰ってきたい、ということでした。レコーディングをして、ライブも決めて、ビレッジのブリッカー・ストリートや街中にずらっとシーナ&ロケッツのポスターが張り出されて、と夢が膨らんだのです。その年は「#9」を作っている時で、さっそくニューヨーク土産の1964Gibson SG Customが大活躍しました、最後は一人歩きもできるようになってローンスター・カフェで見た、トゥーツ&メイタルズにインスパイアされて「I Do Love Me」なども追加で録音しました。
「#9」を最後に浅田が脱退して、ベースに奈良が戻ってきてくれて川嶋と4人のオリジナル・ラインアップに戻ったシーナ&ロケッツはすぐに次のレコーディングに取り掛かりました。ニューヨーク・レコーディングが決まり、ボブがセッティングを手伝ってくれた。サンハウスの「クレイジー・ダイアモンド」からの専任のプロデューサーの高垣さんがビクターから同行してくれたが、レコーディングはすべて俺たちの自由にやらせてくれた。
英語の世界であるし、おれはそこまで英語が堪能ではないけれど、レコードの現場でコーディネーターや通訳を介した作業などしていたら、かえって自分たちの音楽を伝えられなくなったり自由にやることはできないと感じていたので最初から不要だとビクターには伝えていました。
着いた日の夜にはもうメンバーみんなでDRUMSという当時ニューヨークで人気だという、新しいクラブに出かけて、(ボブ・マーリー亡き後の)ウェイラーズの重低音とジャマイカ直送のビートを浴びた。ジェットラグもかさなってすごい体験をいきなりお見舞いされた。楽屋で友達になった出演者のレゲーバンドにレコーディングに参加をもう取り付けてしまった。滞在したのは4thストリートにほど近い、ボンド・ストリートに位置するKampo Culture Centerというところ。スタジオと同じビルの7階全部、フラットとよばれる、ゲストルームで寝起き、そしてレコーディングをして快適だった。すぐ横にホームレスピープルで名高いバワリーストリート、CBGBがすぐのところだった。

[WILKO JOHNSONとのレコーディングがどうして実現したか]
昔から公言しているように俺は70年代からDr.FEELGOODのウイルコ・ジョンソンの大ファンだ。はじめてお目にかかったのは1986年の初来日の時、ライブも見たし楽屋でご挨拶もした。そして、光栄なことにFM東京での共演の話をいただいた。その時の話の続きは俺のウイルコへの思いも併せて、ホームページ・RokketWEBの「鮎川が出会った7人のロックの偉人たち」という、コラムで読めるけれど、塾長の了解をえてこのテキストに転載しました。

以下引用
ayukawa talks 'bout wilko from "big beat magazine 1989"
editer ; osami okamoto

ウィルコ・ジョンソンは、ぼくらがサンハウスでファーストアルバム(「有頂天」)を出して2枚目(「仁輪加」)をレコーディングしてる頃、ドクター・フィールグッドでデビューしてる。5枚目の「プライベイト・プラクティス(79年発表)」に、ぼく、ライナー・ノート頼まれて書いた。あれでドクター・フィールグッドのこととかパイレーツのこととか書きたいこと全部書けたけど、首かしげるような曲じゃなくて筋がとおった、胸がすくぐらいのロックン・ロール。ほとんどウィルコのペンになってたけど、トラディショナルで昔からありそうな曲をちょっともじって自分達の曲にしとる。カバーする曲にもインテリジェンスがすごい。彼らがカバーしてる曲ちゅうのは、ジョン・リー・フッカーの曲とか、枚数追うごとにドクター・ジョンの「ライツ・アウト」とか最上のマニアで、プレイヤーとして弾きまくっとる。

 で、ファースト・アルバム(「ダウン・バイ・ザ・ジェッティー」74年)が出た時に、モノクロジャケットで、当時、シンプルなモノクロジャケットちゅうのは勇気がいった。っちゅうのは、あのサンタナじゃないけどやたら複雑になったり、アイデア、コンセプトがないとジャケットやない時代やった時だった。で、もうひとつ驚いたのは、モノラル録音やったんですね。ファースト・アルバムがモノラル録音。時代に逆らうみたいな強い主張を感じて、そういうやり方もたまらんやった。このバンドすごい、何かあるバンドだっち。

 でも、そういう言い方よりも何より1曲目の針のせた時から、もうごきげんやった。ごきげんなロックとしかいいようのないもの。1枚目と2枚目は、ほとんど同時にぼくは聴いて、オー、マイ・ギタリスト。これがぼくのやりたいこと。ぼくが弾いていることよりも、もっとシンプルでテクニックもあるけれど、ビートの出どころっちゅうのがものすごくわかりやすくて、ベタボレ、最初にベタボレになったギタリスト。

 キース・リチャーズとかジョージ・ハリスンとかエリック・クラプトン。ジェフ・ベック、ジミー・ペイジ、ジミ・ヘンドリックス、ピーター・グリーン。アイドルは沢山いて、ぼくもギタリストのはしくれで、そういうギタリストに夢中になって弾いてて、どうしてこんなギターフレーズが思い浮かぶんだろうって思いながらなぞったりしてたけど、ウィルコ・ジョンソンは、そういうのと次元が違うところでギターが聴こえてくるギタリストやった。

 痛快やったのは1発録りで、モノラル。1発録りっちゅうのは常に憧れやね。レコーディングやるバンドにとって。ほんとにカッコイイこと。吐いた息は戻らない、墨絵をバァーッと描いて、ハイ出来上がったっちゅう、すばらしい憧れ。それは、それだけの腕前がないとできんことやし、アレンジも練っとかないかん。だからフィールグッドが出てきた時に、このバンドは衝撃やったし勉強になる。ぼくらが絶対意識からはずせん、目標にしとかないかんバンド。まちがいなくいいことやりおるっちて。だからマディ・ウォーターズとか名前を口にすると、シャンと背筋がのびる、そういう中にウィルコ・ジョンソンちゅうのが、ドクター・フィールグッドちゅうのがぼくのなかに入ってた。

 ウィルコ・ジョンソンに会ったのは、3年前のFM東京のライブでやったのが初めて。あれは夏やったと思うけど、3年前の夏。日高くん(日高正博・スマッシュ)がアレンジ(会わせて)してくれた。FM ラジオのためにライブをやるのに、ウィルコ・ジョンソン・バンド、プラス鮎川でどうかっちゅうんで、むしゃぶるい。嬉しいっちゅうよりも身にあまりすぎるほどで、やってもいいもんかっち、ちょっとビビッたんです。でもずっとレコードも聴いてたし、あの人の写真から想像するだけでも、たぶんぼくと絶対話が合う人っち信じとった。あの人、74年に初めて出たレコードから絶対黒シャツ。アロハ着たり、ランニング着たり、他の服着るんじゃなくて、いつも黒シャツに黒のスーツで黒のズボン。そしたらやっぱり同じでしたね、昨日('89.10.17)も一緒でしたけど、もう笑いますね、あそこまでいくと。だからああいう頑固な人なんですね。

 あの日、FM 東京のスタジオに行って、そこでウィルコさんを紹介されて、なにをやるちゅう話にいきなりなるんですね、ぼくはウィルコ・ジョンソンのレコードずっと聴いてて、だいたいこれをやったほうがよかろうとだから「シー・ドウズ・イット・ライト」、「バック・イン・ザ・ナイト」。何か歌えっちゅうんで、ぼくもステージでやってて、ウィルコ・ジョンソンも自分達のレパートリーに入ってる曲ちゅうんで「ルート66」。それからぼくの個人的リクエストでソリッド・センダーズっちゅう、ウィルコ・ジョンソンがフィールグッド抜けて次に作ったバンドでやってた、ボブ・ディランの「ハイウェー61」ちゅう曲と、やっぱり同じ時にやってた「ロック・ミー・ベイビー」っちゅうB・B・キングの曲も一緒にやりたいと。(ウィルコ・ジョンソンはソリッド・センダーズを結成後、78年「電光石火」をリリース)

 で、びっくりしたのは、すごいもの静かな人で、チューニングとかもそれほど神経質にバランスがどうとかじゃなくて、やっぱり現場主義の人で、ホント毎日行きあたりばったりのクラブで、その場で瞬間に最高のもんを創ってしまう。そのレンジが広いっちゅうのかな、こういう情況じゃないとやれないっちゅうげなミュージシャンもいるけれども、わかっとるわいな、ちゅうげな気分ってあるでしょう、色々事情はあるわいなっちゅう。こういう場合はこういう場合でせないかん、そんなわがままばっかりいわれんちゅうげな、そういう感じでバババッと音きまったら、リハーサル、バンとやり出したんです。

 そしたらウィルコの動きがあるでしょう。バッバッバッーッて。(ギターを弾きながら蟹のような横歩きが独特のスタイル)いきなりあれを、音が出たとたんに、こう、やり出したんです。お客さんは、スタッフの人とかが椅子に10人ぐらい座っているだけ。でもバババーッてやり出した時、皆んなでアレレちゅうげな感じになった。で、やっぱりプロフェッショナルの真髄を見た感じがあって、いきなり人変わったみたいになるんですね。わりと物静かなクールな感じなのが目がこんなに(見開いたように)なるし、大股で歩き出して、頭から抜けるみたいな声で、急にヒャーッて歌い出して。番組のために、ぼく、司会みたいなことやらされてて「今日はぼくの大好きなウィルコ・ジョンソン・バンドが来てます」とかゆうて、で、5〜6曲やって、ウィルコがぼくのこと「マコトー」とか呼んでくれて。その時、ぼくは誠実な気分受けたのは、足が地についたミュージシャン。自分が今どこに来て何をやりたいか、誰と向いあって誰と一緒に仕事しとるかちゅうの、全部把握できる。そういうタイプのミュージシャンを感じて、えらい好きやった。いい気分やった。

テクニックの面でいうと、ピックを持たなくて指で弾く。あれはぼくなんかやっぱ憧れてしまうスタイル。どこでもいつでもイケる。ぼくはピックがないとオタオタするし、ステージでピックがとんだら。ピックをガムテープでマイクスタンドにとめてるミュージシャンがいるでしょ。ブルースマンはピックなんかないですから、基本的に。だからいきなり指でバッとやられると憧れるんですね。で、あん時は一緒に渋谷の居酒屋で飲んで、一緒にタクシーに乗ってストンプに行って、3時か4時ぐらいまで一緒におったけれども、わがままじゃないところがまたビックリしたんです。そうとうくだびれとったろうし、ことばも自分からあんまり言わない人で、自分から話題作って、なあ、お前、とかいう感じでイキナリ切り出したりすること全然なくて、何かきっかけがあったらその話をする。バディ・ガイのブルースがかかってた時に自分から言ったんですけど、ぼくはこれのビデオ持っとるけど、すごくいいんだとか、それ以外はお酒も飲まんし、ストンプの苦くて濃いの(コーヒー)をお茶みたいにグビグビグビグビ飲んでたけど、ほんといい時間一緒に過ごせたのが最初の出会いやったな。

 去年('88)はよく覚えてるけれども、インクスティック(芝浦インクスティック)でコンサートがあったので、2日目にぼくは行ったんですね。ものすごく幸せやったのは、スマッシュの人達がぼくをウィルコさんに会わせる感じで待っとってくれたのがすごい嬉しくて、楽屋に入っていったらノーマン(NORMAN WATTOROY/b)にしてもサバ(SALVATORE RAMUNDO/drs)にしても、何かホント明るく歓待してくれて、やあーとか言うて、ワァワァワァワァいいよったら、ウィルコさんだけがソファーにゴロンと横にしとったけれども(腹痛、食中毒だったようだ)、ぼく見たら起きあがって挨拶しに来てくれて、太い手で握手してから、「今日じつは調子がすごい悪い。すまんけど、あの、また横になっとるから」ちゅうて、ゴロンとして、心配やって、楽屋でて2階でずっと見てた。

 ぼくは10年ぐらいやっとって1度だけおなかこわしたことがある。おはぎ(若松「ときわ」のおはぎ)をいっぱい食べすぎて。うちの子供にもったいないから食べろちゅけど食べんので、こんなうまいもんをっていいながらいっぱい食べた。(笑)で、次の日、おなかこわした日っちゅうのはホント、ギター弾けん、つらかった。腹とかヘソに力がはいらんと、歌も歌えんし、ギター弾くのも力がでん。

 で、ウィルコも心配やったところが、彼は出てきたとたんに相変わらずで、今晩わ、とかゆうたら、もうジャキジャキジャキーってやり出したんで、マディ・ウォーターズを観た次ぐらいに涙が出そうになった。あのフィーリングちゅうのがやせ我慢じゃなくて、もうそういう次元じゃなくて、今日は俺ちょっと調子が悪いとか言わんし、すごいベスト・コンディションみたいな顔して、実際音もそうやし、もう文句のつけどころがない。動き回り方や、あの新しいアイデア、ダダダダッちゅう(マシンガンを撃つかっこう)あそこまでやってなかった、前観た時には。それと、すごい勉強になったのは、あまり弾かんでも、ジャーンとか弾いといてギターをこうやる(ギターを客の方につき出してゆする)。楽やけれどお客は騒ぎたくなる。ああするんだな、あれはいいね、と思って、ぼくもあんまり一生懸命弾くばかりが能じゃねえっちゅう感じで勉強になった。

・・・で、インクスティックの時はアンコールも2度やって、元気なウィルコを想像して、すごいよかったぜっち言いに、お客さんも帰り出した頃、すぐっちゅうのは汗だくだから、ちょっと間をおいて楽屋に行ったら、また寝とった。全然よくなってなかったみたいなのに2度びっくりしたんです。あん時、初めて、ちょっと指を見せて下さいっちゆうたら、見せてくれたんです。それまで、そういうなれなれしいことできないっていうでかい指やったけれども、ふわふわでしたね。さぞや鉄みたいな指じゃないかってでもいつもそうですね、アルバート・キングさんもそうやけど、指で弾くからっちゅうて、ここ(親指)にタコができたり、カチカチになっとるちゅうことなくて、やわらかいんだな、って思って。ブルースマン見てるみたいですね、ウィルコさん見ると。ホワイト・ブルース。生きてるリビング・ホワイト・ブルースマン。
Makoto Ayukawa@ 7人のロックの偉人達 (聞き手&構成/岡本おさみ、吉田妃呂)

・・・・*************************** 引用終わり・・・・****************** *********

[インメイツの代役でウィルコと共演】

 さて上の文は1989年ごろの話だが、1990年、シーナ&ロケッツは奈良、川嶋がそれぞれ自分の道を歩くために退団して、初来日のローリングストーンズの東京ドーム公演を見ながら満員の観客席を見渡しながら、次のメンバーはこの中にいる人ならいいなー、などと思っていた。シーナ&ロケッツは新しいベースとドラムも決まり活動が中断することはなかったが並行して俺のプロジェクト、しばらく鮎川誠ブルースバンドもたまにやりながら、好きなブルースを歌っていた。92年の10月だったか、クラブチッタにWILKO JOHNSONとINMATESの公演があり、インメイツが都合で出演できなくなり、主催のスマッシュの日高さんからピンチヒッターで出演依頼が来た。願ってもない話も最高だったし、コンサート当日最後にアンコールでシーナも一緒にROUTE66を演奏して、この時の模様はのちに発売されたWILKOのビデオにも収録されたが、もう一つ、俺が希望したのはライブの後、2−3日東京に残って一緒にレコーディングやってくれないか、ということだった。その時は、次のライブの予定が入っていてすぐに日本を発つということで無理だったが、ずうずうしいとはいえ願いを口に出してみるものだ、あくる年、スマッシュの日高さんを通じて、ウイルコがロンドンで待っているという夢のような話が実現した。

[ロンドン・レコーディング(ビクターの企画書)】
RECORDING DATA
〇 日程 1993年2/25・26 Rehearsal At NOMIS STUDIO
          2/27〜3/7 Recording & Mixdown at TOWN HOUSE STUDIO
          3/9 Mastering at Metropolis STUDIO
     ☆ライブ 3/5 LIVE at HALF MOON PUTNEY With WILKO JOHNSON BAND

〇 Engineer AL STONE (エリック・クラプトン、ビョークなどをやっている)
〇 MASTERING ENGINEER TONY SOUSINS

〇アルバムタイトル 「LONDON SESSION」
  1970年ごろブルースのレーベル、CHESS RECORDSからハウリング・ウルフ、 マディ・ウォーターズ、 チャック・ベリー、ボー・ディドリーなどがロンドンで英国ミュージシヤンを迎えて「LONDON SESSION」というタイトルでアルバムがリリースされた。それにちなんで、まねてみた

〇レコーディング・メンバー
・鮎川誠 (Vo, G)
・シーナ (Vo, タンバリン)
・WILKO JOHNSON (Vo &G)
・Norman Watt-ROY (Bass & Cho)
・SALVATORE RAMUNDO (Drums)

〇GUEST MUSICIAN
・スティーブ・ナイーブ (Key)エルビス・コステロ&アトラクションズのキーボード・プレイヤー
・ルー・ルイス (HARP) エディ&ホットロッズの初代メンバー。スティッフ・レーベルからソロ・アルバム「SAVE THE WAIL」を出している
・ジョン・デントン (PIANO) ウイルコと同郷、サウスエンドのパブロック・ミュージシャン、数多くのレコーディングに参加している

・・・・*************************** 引用終わり・・・・***************************

[参考文献】 上記の、ウイルコで引用した、「鮎川が出会った7人のロックの偉人たち」という、コラムで、イギー・ポップ、ミック・ジャガーと出会った時の話の中に、ニューヨーク滞在中のことが出てきますので、参考のためにここに掲載します。

IGGY POP/イギー・ポップ
 この人の音楽ってのはすごくインパクトあって、月並やけども、パンクのゴッド・ファーザー。体現してる、形にした一番最初の人でしょうね。ロックやらブルースやらの持ってるエネルギーの、ピークになった時どういう型になって、どういうアクションやるかっちゅうのを全部ひとつの型にしてしまった。カッコよさのエッセンスをすごい上手に出す作曲をするし、いいギタリストと組んで思い切りのいいレコードを69年から出した人で、69年の「ノー・ファン」っちゅうのと70年に出した「1970」ちゅうタイトルの2曲は、78,79年頃にイギリスのパンク・バンド、ダムドがカバーしたり、いろんなリメイク、カバーでパンクの人たちがよくやってたけども。ぼくの3人目の子供のちえちゃん(知慧子)が生まれる前の日に、サンプラザ(中野サンプラザ)に観に行ったのが、イギー・ポップを観た最初なんです。だからあれは1983年。

 その時イギー・ポップは、すごいイカレたステージやってぼくは度肝抜かれた。最高と思った。まわりの人は最低っち、あん時の評判ものすごく悪かったけども、ぼくにとっては一番いい時観たみたいに見解がすごく違うとった。ぼくの見解のほうが当たっとったと思うんやけど、イギー・ポップの音楽ちゅうののありのままが出とった。その日どうするかを決める。ステージにでて決める。眼の前にマイクがあったらマイクつかんで歌う。どっか投げてしまう。別に捜さん。ないならないで何かやる。あわててローディーがマイクを持ってくる、あたりまえみたいにマイクをつかんでやる。メガネをふざけてかけてくる。眼にじゃまんなる、ポーンと投げる。まだ歩き始めた子供、ダダっ子が眼にふれたらそれつかむ、飽きれば棄てる。イギー・ポップのいちばんイカレた時の真髄みたいな、這いたくなれば這って、踊りたくなったらねじれ踊りしてみたり。ぼくは、イギーの気持がようわかったけれど、客席もなんも関係ないところでやるちゅうか・・・・・・。

 あの頃は私生活もワイルドやったらしいけど、4年後に日本青年館でコンサート観たあとで会った時はものすごいジェントルマンで、ドラッグをやめたとか、生活をきれいにしたとか、まじめなこと言いよったけど、すごく迎えいれてくれて、自分の話もしよるけど、ぼくの話も聞いてくれて、インタビューで気持ちがよかったっちゅうのは、ウィルコ・ジョンソンとイギー・ポップとパティ・スミスとこのレニイ・ケイ。みんな年もぼくより1個上で、その3人とはほんと特別な出会いの後の、ぼくが慕っていく気持ちが続いている。  (青年館のコンサートは)すごく強力でバンドとして練りあげて、よかった。どうや、よかったやろ、ちゅうて言いよったけど、その前(6年前)に来た時はバンドがひどかった。俺のバンドじゃなかった。で、FMファンのためのインタビューやったけど、他にプライベートな話がいくつもあって、おんなじだおんなじだっちゅう話がでたんです。たとえばローリング・ストーンズ聴きだして、ブルースをディグしだしたちって。おお俺もおなじだ。リンク・レイっちゅうギタリストがぼくのアイドルなんやけどちゅうと、おお、リンク・レイ、やあぁちゅうて。こん時、ホントいい時期すごせた。

 次の年('88)ぼくらがアメリカにレコーディングに行った時に、イギー・ポップに連絡とれなかったんですけども、アップタウンのドラムス(DRUMS)でライブをやった日に、ボブが(ボブ・グルーエン・カメラマン)、客席にイギー・ポップが来てるぜ、っちゅうて、嘘やろう、ちゅうて皆んなびっくりしたら、(ライブが終わってから)イギーはいつもの調子で、「新聞見とったら、お前達が載っとるから驚いた、驚いて来たよ」ちゅうて、楽屋に来てくれたんです。ドラムスでやった日には固かったんです。あとでテープ聴いたら演奏は悪くない、アンコールが5分ぐらいも続いとったけど、ぼくら、こんなでアンコールやったら笑われるっちその日は感じた。でも気分の問題で、俺たちアメリカまで来てやりよる、すごいぜっち単純にのぼりあがればいいんじゃろうけれど、シリアスに、まじめにやっとったし。(笑)

 イギー・ポップは、励ましてくれてね。ぼくの腹をドンとたたいて、ギター、腹にくるぜくるぜっちゅうて。明日はシー・ビー・ジー・ビー(CBGB)やから、これはうまくやれるよ。自分たちはレコーディング、明日カッティングでマスタリングに行かないかんから、顔だせんけん、ごめんなっちわざわざ言い訳までして。ドレス・ルーム(楽屋)にその日は、関係ない日本人まで入ってきたりしてごった返してる中で、イギー・ポップはサインしてとか、写真とらしてとかにも、全員にやさしゅう受け答えして、だいぶ長いことおって、彼は帰っていったけど、日本人以上に義理のある奴ちゅうか、男気のある奴ちゅうか、ぼくらによくしてくれた。ものすごい恩を感じましたね、その時に。イギー・ポップはレコードのファンでもあるけれども、それとは別のところで人間として大切な友人、友達になってくれた人。

  Makoto Ayukawa (聞き手&構成/岡本おさみ、吉田妃呂)
・・・・*************************** 引用終わり・・・・***************************

MICK JAGGAR/ミック・ジャガー
 ニューヨークのクラブ(TRAMPS)で、ミック・ジャガーと偶然一緒になった。でも、サイン下さいっていいきらんやった。ローウェル・ファルソンってすごいブルースマンがやってて、ミック・ジャガーも一生懸命聴いてる。わあ、ミックだぜとか言って席を立つ人は誰もおらん、ローウェル・ファルソンに敬意表して。ファンはミックが来てることを知ってて嬉しそうにしてる。ローウェル・ファルソン観るだけでも最高なのに、そこにミックがおるちゅうんで、みんないい時間といい場所つくっとる。

 でも本当は、ぼくはあなたの大ファンです、て言いたい。ゆうとったら、何て嬉しいだろう、話し出したら1時間だってぼくの話ばかりしてしまうかもしらんちぐらいに頭ん中では考えてた。

 ストーンズにまだマネージャーがつく前のアマチュアの頃に、ジョルジオ・ゴメルスキーちゅうロシア貴族のなれの果ての道楽者みたいな人が、ストーンズの面倒をみてたって、ライナーに書いてあるけれども、その酔っぱらいのジョルジオ(トランプスの常連)がクラブにいて、ミック・ジャガーがポーンと肩たたいて、ジョルジオが、おおー、ちゆうて話すのを、ぼくは横で見てた。

 ただ唯一ラッキーボーイやったのが門番、ニューヨークのライブハウスに必ずいるドアマンみたいな人。その人が足にギブスはめとって、動けんまま椅子に座っとって、ミック、サイン頼むよとかゆうたら、そのギブスにサインしてた。・・・うん、平気な感じで、あれすごくよかった。

 ミックとぼくが一緒に写ってる写真持ってるけど、ボブ・グルーエンがマコトここに立っときちゆうたのね、ミックが通る時(一緒の)写真撮っちゃるっち。ぼくがこうやって(煙草ふかしながら)じーっとしてたら、ミックが来た時にバチッと撮ってくれた。でもぼくの頭の中ではその日がずっといい想い出で、もし話しかけてたら自慢話にもなるし、ミックと握手したぜっとか、それもすてきかもしらんけれど、あれは、ミュージシャンシップ、音楽好きなもんのルールやったろうなっち、今でも思ってる。ぼくはあん時、ニューヨークの底力を見たと思った。音楽が根づいとる。大騒ぎ全然せんし、音楽のゆったりしたフンイキこわさん。ローウェル・ファルソンが小さなクラブでやるのを、ミック・ジャガーが聴きに来とる、あの瞬間ってのはすごいな、って思った。
Makoto Ayukawa@(聞き手&構成/岡本おさみ、吉田妃呂)
・・・・*************************** 引用終わり・・・・***************************

【おまけ、俺のお宝】

1994年4月7日Dr. FEELGOODのリー・ブリロー死去、シーナ&ロケッツ再びレコーディングのためロンドンへ行く。「ROCK ON BABY」を発表。
そのあとのウィルコからの手紙を書き写しています。読めない部分(泣)もありますが、サウスエンドのロッカーがみんな集まって、ジュニア・ウォーカー&オールスターズの「ロードランナー」を演奏してリー・ブリローを送った、というところが日本とのロックの成熟度の違いを感じるところです。

xx,Clatterfield Gdn,
Westcliff on Sea Essex

Dear SHeena & Makoto

Thank you for new CD.Sounds great. I hope it is a big hit.
Thank you also for your kind thoughts about Lee Brilleaux, Many people attended his funeral xxxxx while xx hexxx.- the very old church at Leigh on Sea. At the end of the xxxxx They played Jr Walker's "Road Runner".
Afterwards, eveyone went down to the Dr. Feelgood' club on evenixxxx xxxxx for a party with drinking and music.
I got on stage with Big Figure and John B Sparks and we played "Back in the Night".

Lee Brilleaux was a star.

Yours,
Wilko

【今回取り上げる予定のプレイリストとコメント】

1.S&R - Kiss Kiss Kiss 
N.Yハッピーハウス・レコーディングもたけなわのころに、スタジオに小野洋子さんが遊びに来る、という話が舞い込んだ。ボブ・グルーエンの計らいだった。俺たちは思いがけない話に大喜びして舞い上がったが、ボブが、一曲ジョンとヨーコの曲をレコーディングしたらどうだろう、きっと喜んでくれるよ、と提案した。俺とシーナははじめて出会ったころ彼らの新譜「Sometime In New York」が大好きでよくきいていたし、「ダブル・ファンタジー」も聞いていたが、急いで近所のブロードウェイのTOWER RECORDS(当時上の階にキース・リチャードが住んでいた)へいって手に入れた。そして、「Kiss Kiss Kiss」をとっさに選んで、奈良、川嶋とスケッチする感覚でレコーディングしてみたら、いい感じに出来た。ヨーコさんがくる日、スタジオは蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。スタジオの現地のスタッフたちが、「オノ・ヨーコがやってくるぞ」と上の階、下の階を走り回ってふれまわっていた。ヨーコさんは俺たちを激励してくれて「Happy House」をきいてくれて、「この曲いいわね、ヒットするわよ」といってくれた。シーナがヨーコさんに会えてどんないうれしいか話していると「私たちは会えるようになってたのよ」といってくれて、一緒に写真をとるとき俺たちがヨーコさんを囲んで小さくなっていると「普通に立ってて、私は世界中どこに行っても一番小さいのよ」と言っていた。とても優しくてかわいい人だった。おまけに後日みんなをダコタハウスに招待していただいてお寿司を御馳走してくれた。最高の思い出が詰まった曲です。

2.S&R - I Do Love ME (#9)
1987年俺が初めてニューヨークへ行ったとき、真っ先に手に入れた情報誌、ビレッジボイスという新聞でLone Star Cafeというクラブにクリケッツが出演する記事を見つけた。あのバディ・ホリーのクリケッツだ。その時思ったことは、えー、50年代のバンドが今もやってるんだ!というのが最初の驚きであり衝撃的だった。そして、そーなんだ、ニューヨークという街では何があってもおかしくはない、何でもありなんだ、と、それからは自分の小さくまとまった常識や観念はすべて捨て去ることにした(笑)。ローンスターというのは南北戦争の時の南軍の旗に記された星が一つのデザインにちなんでいるということで、テキサスや南部の音楽がメインのクラブなんだと納得した。後日、雨のニューヨークで、初めて俺はそれまで同行者と共にうろうろしていたが、一人でまたLONE STARへ出かけた。ファンキー・キングストンのTOOTSがニューヨークに来てるなんて、うれしかった。ショウは本当に力強くエネルギッシュですばらしかった。お客も大人たちが多かったのがよかった。日本に帰って、すぐにこの曲を作った。

3.S&R - Poison
ハッピーハウスのレコーディングでエンジニアのJIM BALLがエリオット・マーフィーを連れて来てくれた。「GLORY OF LOVE」にアコースティック・ギターを入れることを提案してくれて。KING OF ACOUSTICなら彼だ、といって。Gibson J-200のそれは素晴らしいサウンドだった。エリオットはナイロン弦のギブソンに持ち替えてアルペジオも加えてくれた。本当に真剣に曲と向かい合ってくれてありがたく、うれしかった。そしてほかに、誰か呼びたいアーティストはいないか?というので、おれはすかさず、LINK WRAYさんが欲しいと伝えた。翌日、LINKは今、スカンジナビアでトレーラーに住んで生活している、CHRIS SPEDDINGならすぐに連絡がつくよ、と。わー、ぜひお願いします、ということで、レコーディング当日夜、クリスはトレンチコートを着て、ギターケースを抱えてたった一人でスタジオにやってきた。すべてがかっこよかった。この曲「POISON」ですごいスライドを披露してくれた。

4.S&R - Lady Sniper
シーナはこの曲こそがニューヨーク・サウンドだと、気にいっていた。一年前に初めてここを訪れたとき手に入れた、白いSGのゆらゆらしたトレモロ・サウンドがお気に入りだった。華やかな大通りからひとつ路地に入り込んだビルの吹き溜まりのようなやばい街の景色が伝わる、といっていた。歌い始め、シーナはわざと、マイクから離れたところからすこしづつ近づいていく感じで試していたのがすごいところだったが、エンジニアのジムもそこのところすぐに理解してちゃんとわかっていて涼しい顔しているのが、ほんとレコーディングのメンバーの心が一つだった。BOB GRUENとDOLLSのマネージャーだったMarty THAWがスタジオやエンジニアを紹介してくれて、リチャード・ロビンソン(NY雑誌ROCK SCENEの編集長)、Lenny Kaye(パティ・スミスの相棒、名盤NUGGETSの編者)、IGGY POP,ガーランド・ジェフリーズ、MINK DeVILLEのケニー・マーゴリスにはライブでも手伝ってもらった、マスタリングのGREGG CALBI、CBGBのHILLYさん、スーサイドのMartin REVも顔出してくれた、スミザリーンズのプレイバック・パーティにも顔を出して、こうやってニューヨークのロッカーは結束がかたいのか、と垣間見た。

5.AYUKAWA MAKOTO - Ride Your Pony
 1990年ローリングストーンズの初来日の公演にホーンセクションとしてHappy Houseのレコーディングに参加してくれたUpTown Hornsが同行していて、彼らの招待で俺とシーナは毎晩、東京ドームの楽屋に出入りができる幸運にありついた。MickにもKEITHにもBill、Charlie,RONNYにも何度も会えたり、それはそれで最高の思い出がたくさんあるが、ある日彼らの宿泊しているホテルに遊びに行ったら、六本木のレコードショップWAVEでたくさんのCDを買いこんでいてみんなで聴いていた。コーラスの、バーナード・ファウラーもドアを開けて遊びに来たりして、シナロケのハッピーハウスなどもプレイしてくれてうれしかったが、その中にこの曲が入っているThe METERSがあった。あまりのかっこよさに俺はこう言った。ねえ、バーナード、キースはこんなかっこいい曲知らんよね、すると彼はこう答えた。キースは音楽博士だよ、知らない曲なんてないよ、と最高に尊敬する真顔で答えてくれた。

6.AYUKAWA MAKOTO -ROCK ME BABY
ロンドンセッションのレコーディングが終了して、俺たちは一枚のCDに入りきれないほどの曲をレコーディングしてしまい、選曲と曲順をマスタリングの前に12曲ぐらい絞って決めなくちゃいけない。俺とシーナはウイルコの住むサウスエンドのお宅へ相談もかねて遊びに行った。KINKSのウォータールーサンセットで有名な一角、そこのフェンチャーチ駅がテームズ川左岸の河口、キャンビーアイランドのほうへ向かう出発点。汽車が駅を出るとすぐにロンドン塔がビルの間に見え隠れしていたが、わりとすぐにビル街をはなれて、タウンハウス(長屋)様式の家が立ち並ぶ住宅地街にはいり、町と町の間は荒涼とした感じの田園地帯が延々と広がる感じ。 そしてテームズ川が現れ、もう、河口のずいぶん手前から有明海のような泥の海状態、潮が引いて小舟、大船がずらっと泥に埋まっている。一時間くらい乗ってCHALKWELL駅で降りて、ウイルコ宅へ。 ウイルコの部屋で絨毯の上に座り、トラックダウンDATテープと、当日の同録ラフミックスのDATも全部出して、曲を聴きながら選んでいる最中、偶然この「ROCK ME BABY」がかかり、ウイルコはミックスダウンしたテイクより、こっちの当日のテイクの方がいい、というのだ。鉛筆でぐるぐるしるしを付けてこっちで行け、というのだ。CDを今聞いてみると、ほかのテイクに比べて特にドラムの音は素に近い感じだけれど、ルールイスのハーモニカからフェイドインしてくるイントロのタイミングや、生の飾りのない演奏がウイルコは気にいったんだな、と思う。ウイルコの言うこと聞いといてよかった。

7.AYUKAWA MAKOTO - Baby Please Don't Go
この曲はローリン&タンブリンと同様にたくさんのアーティストの名演がある。思いつくだけでも、ゼム、ボブ・ディランはGREAT WHITE WONDERという、ブートレグの始まりのレコードで友人が東京のロック喫茶で流れている音をスピーカーの前でカセットでこっそり隠しどりして持って帰ったやつをみんなで囲んで何度もきいていた、若いディランの渋い声とギター、これこそブルースだと思った。サンハウスの最初のレパートリーの一曲でこれは、ライトニン・ホプキンスのヨーロッパのブルースフェスのライブをお手本にしていた、RCAブルースの古典が出てはじめてオリジナルだという、Big Joe Williamsのやつを聞くことが出来た。1980年、ただの一度だけマディ・ウォーターズが日本にやってきて俺は渋谷公会堂の最前列の右のスピーカーの前の席にいた。マディがブルースバンドの演奏に乗って登場して椅子に座って最初の一声がBABY PLEASE DON'T GO!だった。張りのある力強いあの声で、そしてGOのところでいきなり節回しでゴンと低い音に移る、わーォ、これだ、これがミシシッピの伝統の歌い方、ドローン唱法と人が言うのをきいたことあるが、その声を聴いたとたん俺の頭の中は、これまで夢中になって聴いてきたすべての音楽への思いでぐるぐる回りだして、目から涙が勝手にあふれ出してきた。ロンドンセッションでは1曲目候補だった。始まる前にウィルコがどう始める?といって、俺がJUST STARTというと、ウイルコがカッティングのリズムで旋律を弾き始めるところがなんともたまらないのだ。

8.AYUKAWA MAKOTO - I'm In The Mood
この曲はジョン・リー・フッカーのミディアム・スローブルースで、日本でRCAブルースの古典やら出ていたころ、同じビクターレコードから発売された、「CHICAGO BLUES GOLDEN PACKAGE」という2枚組のアルバムで聴いていた曲だ。このアルバムは当時まさに、シカゴブルースのバイブルのようなものだった。CHESS RECORDSのまでぃ、ウルフ、エルモア・ジェームス、ジミー・ロジャーズ、リトル・ウォルター、ローウェル・ファルソン、ソニーボーイ・ウィリアムソン、オーティス・ラッシュにバディ・ガイの代表曲が収められていて、とても奥が深いシカゴブルースの入門書のようなものだった。もちろんサンハウスにとってもすべての曲がお手本だった。ソニーボーイの「Bring it On Home」はいつもお客がはけた最後のステージで楽しみに演奏したものだ。ロンドンセッションでは、わりとストーンズから教わったような、あえてポピュラーなブルースロックを、題材にあげてやったけれど、数曲はこのような割とノン―ポピュラーな選曲もした。俺とウイルコがダラーと初めて、ジョン・デントンがピアノでのっかってきて、ノーマンのベースからリズムが作られてくるこのイントロが震えがくるほど大好きなのです。

9.AYUKAWA MAKOTO - ROXETTE
イギリスについてその夜はウイルコたちが夕食を共にしてくれた。ホテルの近所のイタリアンレストランに行って席について注文を決めていたら、ドラムのサバが「俺はスターターにXXXX」とウェイターに言ってるのを聞いて、ほー、前菜のことだな、こんな風に頼むんだ、とか思って覚えとこうと思った。その夜はやりたい曲など挙げて打ち合わせも軽く済ませた。翌日から、隣の部屋でポール・ウェラーがやってるようなプロ使用のスタジオ、NOMISでみんなで音を出して小手調べを始めた。みっちりやるというより思いついた曲を順にスケッチする感じ、2日目はちょっとやって、もう、もったいない、この今出している音をスタジオで取りたいから早めに切り上げてノーマンの提案でクイーンズウェイのインド料理屋へくりだした。食事中に鏡に映った席にジェフ・ベックが座っている、うそっと思ったが、ジェフだった。T-シャツにチョッキ、なんか見慣れた姿、それも60年代の顔してる。時が止まったのかと思うほど。もちろん席を立ってそばに行って、ちょっとだけご挨拶をした。優しく紳士的に話を聞いてくれた。シーナもその若々しさに驚いていた。

テーブルに戻るとウイルコが候補曲についてこう切り出した。ロバート・ジョンソン、マディ、ジミーリード、ジョンリー、チャックベリー、なかなかいいけど、ウイルコ・ジョンソンが入ってないぜ。来たか―と思い、俺。ごめん、実はロクセットがやりたいけれど歌詞を用意してなくて(汗)、ウイルコは「Good Choice !」といって手帳を出して見開き2ページに目の前でさらさらと書いてびりっとむしって、ハイと渡してくれた。

10.AYUKAWA MAKOTO SHEENA VOCAL - Sittin' On My Sofa
ウイルコはキンクスは好きやったろうけれど、シーナ&ロケッツの1978年のデビュ―で前座をやらせてもらった、恩人のエルビス・コステロとアトラクションズは、個人的にはどうも苦手のようだった。オーバーダビングでキーボードのスティーブ・ナイーブに弾いてもらう手はずは前もって頼んでいたけれど、それが気に入っていない様子だった。出来上がった後もぶつぶついっていた。スティーブは今や世界的名機と探し求められている、長年愛用の、「THIS YEARS MODEL」から大活躍しているVOXのコンチネンタルというキーボードを脇に抱きかかえて一人スタジオに来てくれた。シーナはデビュー後すぐにレパートリーにいれていたほどお気に入りのこの曲と、サティスファクションの2曲に好きな音をお任せでかぶせてもらった。数テイクすきにひいてもらったけれど、その時その時のインスピレーションが素晴らしく、決めがたいほどだった。

11.AYUKAWA MAKOTO - RUMOUR (あとの祭り)
セッションでは、サンハウス時代に作った曲を3曲カバーした。「ナマズの唄」と「どぶねずみ」とこの曲だ。ハウリング・ウルフの「Going Back Home」を下地にしたブルースだ。レコーディングでは軽く音合わせをした後、もう先にルー・ルイスが吹き始めているところから始まっているのがうれしい、これこそがセッションだ。レコーディングの時、すでに半ば伝説のLEW LEWISが本当に来てくれるのか、わくわくして待っていた。LEWのスティッフ・レコードから出た、「SAVE THE WAIL」は威勢が良くてリトル・ウォルターっぽく不良っぽくて最高のブルースロックアルバムの1枚だ。LEWが本当にやってきた。ウイルコがまるで彼が弟のようにかいがいしく世話をしていた。挨拶もそこそこ、お上手や礼儀なんかどうでもいいようなストレートな振る舞いが好感もてた。思った通りの悪ガキ、もうすぐスタジオの方へ行って、アンプはこれか、どれ、という感じで音を出そうとしてウイルコがスタジオの助手にいろいろ指示を出しているのが見ててほほえましかった。ロンドンセッションにLEWを迎え入れることが出来て本当によかった。この曲「あとの祭り」ではLEWのハープがロンドンの冷えた空気と切なさを表現してくれている。

以上、あとは当日、ひらめきで選曲しますのでどうぞおたのしみに。

鮎川誠

【ディスコグラフィー】
HAPPY HOUSE 1988/7/21
SHEENA & THE ROKKETS
invitation VIH-28336 VDR-1528
Speedstar VICL-60008

    HAPPY HOUSE (Sheena-Ayukawa)
    JET COASTER (Shibayama-Ayukawa)
    WILD ONE (Shibayama-Ayukawa)
    GLORY OF LOVE (Shibayama-Ayukawa)
    YA-YA-YA(Shibayama-Ayukawa)
    POISON (Anne Billson-Ayukawa)
    LADY SNIPER (Arikawa-Ayukawa)
    THE SPY (Ayukawa)
    ROUGH NECK BLUES (Shibayama-Ayukawa)
    EARRING (Sheena-Ayukawa)

SHEENA & THE ROKKETS
    Lead Vocals, Tambourin :Sheena 
    Guitars, Vocals :Makoto Ayukawa 
    Drums, Chorus :kazuhide Kawashima 
    Bass, Chorus :Toshihiro Nara

GUESTS
    Guitar; CHRIS SPEDDING 
    Acoustic guitar; ELLIOT MURPHY 
    Keyboards; KENNY MARGOLIS 
    Bongo Stick; BORIS KIMBERG
    THE UP-TOWN HORNS
        Baritone Sax : Crispin Cioe 
        Trombone : Bob funk 
        Tenor Sax : Arno Hecht 
        Trumpet : Hollywood Paul Litteral
    MOJA NAYA
        STY, Desi Hyson, ROCKET ROCK, Robin Armstrong

1993 MAKOTO AYUKAWA with WILKO JOHNSON BAND VICL-410

    .BE BOP A LULA (Gene Vincet-Tex-Sheriff Davis)
    .STOP BREAKING DOWN (Robert Johnson)
    .RUMOUR (Makoto Ayukawa)
    .BIG BOSS MAN (Al Smith-Luther Dixon)
    .RIDE YOUR PONY (Naomi Nevile)
    .ROCK ME BABY (B.B.King-Joe Josea)
    .DOBUNEZUMI (Makoto Ayukawa)
    .ROXETTE (Wilko Johnson)
    .BABY,PLEASE DON'T GO (Muddy Waters)
    .RUMBLE (M.Grant-L.Wray)
    .I'M A KING BEE (James Moore)
    .BE MY BABY (Phil Spector-Ellie Greenwich-Jeff Barry)

  ALL SONGS ARRANGED BY MAKOTO AYUKAWA WITH WILKO JOHNSON BAND

  Vocal,Guitars :Makoto Ayukawa
  Guitar,Vocal :Wilko Johnson
  Bass :Norman Watt-Roy
  Drum :Salvatore Ramundo
  Vocal,Tambourine :Sheena

Piano :John Denton
Harp :Lew Lewis
Produced by Makoto Ayukawa
Recoded & Mixed by Al Stone
Assistant Engineered by Mark Loarner
Mastered by :Tony Cousins
London Session at The Town House Studio (27th February-9th March,1993)
London Session Co-ordination :Masahiro Hidaka & Jason Mayall (Smash Corporation)

1993 MAKOTO AYUKAWA with WILKO JOHNSON BAND VICL-410

1.CATFISH (Makotk Ayukawa)
2.I'M IN THE MOOD (John Lee Hooker-Bernard Besman)
3.HOOCHI COOCHI MAN (Willie Dixon)
4.ROUTE 66 (Bobby Troup)
5.SITTIN' ON MY SOFA (Raymond Douglas Davies)
6.I GOT YOU(I FEEL GOOD) (James Brown)
7.FUJIYAMA MAMA (Earl Burrows)
8.AROUND & AROUND (Chuck Berry)
9.(I CAN'T GET NO)SATISFACTION (Mick Jagger-keith Richards)
10.BIG BOSS JAM (Al Smith-Luther Dixon)-INSTRUMENTAL-
11.BABY PLEASE DON'T GO(STONED MIX) (Muddy Waters)

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