シーナ&ロケッツがライブでプレイしたことがある、大好きなローリング・ストーンズの大切な50曲たちをえらんで話をします
# _Title1 _Title2 Start Key [tempo] Age Album kover Sings Sing21 Doom And Gloom ドゥーム&グルーム 2012 AM&SHEENA 26 2 You Got Me Rockin' ユー・ガット・ミー・ロッキン 1994 sr Sheena Sheena 3 3 Harlem Shuffle ハーレム・シャッフル 1986 @Heart sr Sheena Sheena 2 4 Going to A-Go Go ゴーイング・トゥ・ア・ゴーゴー 1981 stones Sheena AM 1 5 Little T&A リトルT&A 1981 AM 16 6 It's Only Rock'n Roll イッツ・オンリー・ロックンロール B 1974 sr Sheena Sheena 20 7 Stop Breaking Down Blues (Robert Johnson) ストップ・ブレーキング・ダウン A 1972 London a AM 46 8 Brown Sugar (Jagger - Richards) ブラウン・シュガー 1971 AM 21 9 You Gotta Move (Fred MacDowell) ユー・ガッタ・ムーブ 1971 a AM 31 10 Dead Flower デッド・フラワー 1971 tsuwana romel 44 11 Love In Vain ラブ・イン・ベイン 1969 a AM 13 12 Honky Tonk Women ホンキー・トンク・ウーマン 1969 a AM 14 13 Gimme Shelter ギミー・シェルター 1969 45 14 Jumpin' Jack Flash (Jagger - Richards) ジャンピン・ジャック・フラッシュ 1968 a AM 22 15 Sympathy For The Devil 悪魔を憐れむ歌 1968 32 16 Ruby Tuesday (Jagger - Richards) ルビー・チューズデイ Guitar C 1967 Captain sr Sheena Sheena 10 17 Let's Spend The Night Together 夜をぶっとばせ 1967 27 18 As Tears Go By (Jagger - Richards) アズ・ティアーズ・ゴ・バイ 1966 sr Sheena Sheena 8 19 Lady Jane 1966 AM 23 20 Satisfaction (Jagger - Richards) サティスファクション AYUKAWA/GUITAR E_139 1965 pinup a AM 7 21 Play With Fire 1965 AM 24 22 That's How Strong My Love Is 1965 AM 25 23 The Last Time 1965 AM SHEENA 29 24 Get Off Of My Cloud 1965 AM 35 25 Little Red Rooster (Howlin' Wolf) リトル・レッド・ルースター g 1965 a AM 40 26 I'm Talking About You トーキン・アバウト・ユー Guitar 1965 a AM 42 27 Down Home Girl (Alvin Robinson) ダウンホームガール 1965 a AM 47 28 It's All Over, Now (Bobby Womack/Rolling Stones) イッツ オール オーバー、ナウ G 1964 a AM 4 29 Around & Around (Chuck Berry) アラウンド&アラウンド Guitar A_180 1964 London a AM 5 30 Heart Of Stone (Jagger - Richards) ハート・オブ・ストーン 1964 TributeStones sr Sheena Sheena 6 31 Tell Me (Jagger - Richards) テルミー C 1964 RockTheRock sr Sheena Sheena 9 32 Empty Heart エンプティ・ハート 1964 a AM 11 33 Suzy-Q (Dale Hawkins) スージーQ Guitar E_177 1964 Channel sr Sheena Sheena 12 34 Walking The Dog (Rufus Thomas) ウォーキン・ザ・ドッグ Guitar A 1964 a AM 19 35 Mona (Bo Diddley) モナ E 1964 AM 28 36 Carol (Chuck Berry) かわいいキャロル 1964 a AM 34 37 I Just Want To Make Love To You (Muddy Waters) 恋をしようよ D /80 1964 m KIKU hotoke 36 38 Route 66 (Bobby Troupe) ルート66 1964 a AM 38 39 I'm A King Bee (Slim Harpo) アイム・ア・キングビー E_120 1964 London a AM 41 40 Not Fade Away ノット・フェイド・アウェイ 1964 @Heart sr Sheena Sheena 43 41 Little By Little リトル・バイ・リトル E 1964 AM 48 42 Come On (berry) カムオン Count G_169 1963 #1 a AM 17 43 I Wanna Be Your Man アイウォナビーユァマン Count A_163 1963 a AM 18 44 I Can't Be Satisfied (Muddy Waters) アイ・キャント・ビー・サティスファイド G_101 1963 m AM 30 45 I Want To Be Loved (Muddy Waters) アイ・ウォント・トゥ・ビー・ラブド C /111 1963 AM hotoke 33 46 Money (Beatles) マネー 1963 sr Sheena Sheena 39 47 Stoned (Nanker Phelge) ストーンド G 1963 AM 50 48 Paint It Black (Jagger - Richards) 黒くぬれ 1966 sr Sheena 37 49 Don't Look Back 1978 50 The Harder They Come 1978 stones 15 b Mannish Boy (Muddy Waters) マニッシュ・ボーイ A /70 m hotoke hotoke 49
The Rolling Stones | |
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ミック・ジャガー、キース・リチャーズ
ロン・ウッド、チャーリー・ワッツ |
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基本情報 | |
別名 | ストーンズ |
出身地 | イングランド ロンドン |
ジャンル | ロック ブルース ブルースロック リズム・アンド・ブルース サイケデリック・ロック ロックンロール ロカビリー |
活動期間 | 1962年 - |
レーベル | デッカ, ロンドン, ローリング・ストーンズ, ヴァージン, アブコ, インタースコープ, ポリドール |
公式サイト | www.rollingstones.com/ |
メンバー | ミック・ジャガー(ボーカル) キース・リチャーズ(ギター) ロン・ウッド(ギター) チャーリー・ワッツ(ドラムス) |
旧メンバー | ブライアン・ジョーンズ(ギター) イアン・スチュワート(キーボード) トニー・チャップマン ディック・テイラー ビル・ワイマン(ベース) ミック・テイラー(ギター) |
ザ・ローリング・ストーンズ (The Rolling Stones) は、イギリスのロックバンド。1962年4月のロンドンで、ブライアン・ジョーンズ(ギター、ハーモニカ)、イアン・スチュワート(ピアノ)、ミック・ジャガー(リードヴォーカル、ハーモニカ)、キース・リチャーズ(ギター、ボーカル)によって結成、その後間もなくベーシストのビル・ワイマンとドラマーのチャーリー・ワッツが参加した。
結成当初のリーダーはジョーンズであったが、後にジャガーとリチャーズがコンビで作曲を行い、グループをリードするようになった。1969年、ジョーンズは体調不良と法律問題のためバンドへの貢献が減少しツアーへの参加もできなくなり、バンドを脱退、その3週間後にプールで溺死した。ジョーンズの後任としてミック・テイラーが加入、1974年に脱退するまで活動を続けた。その後、ロン・ウッドが加入する。ワイマンは、1993年にバンドを脱退、後任としてダリル・ジョーンズがベースを担当するようになるが、正式メンバーとしては加入していない。スチュワートは、1963年に公式メンバーから外されるが、バンドのロードマネージャーを続け、1985年に死去するまでピアニストとしてツアーやレコーディングに参加した。1982年以降は、チャック・リーヴェルがバンドのキーボードを担当している。
ロック草創期の1960年代前半から現在まで半世紀以上、1度も解散することなく第一線で創作を続ける、ロックの代名詞的な存在である。エアロスミスやガンズ・アンド・ローゼズ、オアシスなど、ローリング・ストーンズを崇拝するアーティストは数知れない。
ストーンズは当初ヨーロッパでの人気が高まり、間もなくブリティッシュ・インヴェイジョンの一波として北米での成功を収めた。イギリスでは22作のスタジオアルバム(アメリカでは24作)、11枚のライブアルバム(アメリカでは12作)、多くのコンピレーションをリリースし、現在までの全世界での売り上げは2億枚を超える[1]。『スティッキー・フィンガーズ』(1971年)はその後アメリカで8連続No1となるアルバム群の最初の1枚であった。最新作の『ア・ビガー・バン』は2005年にリリースされた。1989年にロックの殿堂入りし、2004年には「ローリング・ストーン」誌の100組の偉大なアーティストで4位にランクされた[2]。2008年には「ビルボード」誌の100組のトップアーティストで10位にランクされ、ビルボード ホット100では2番目に成功したアーティストに選出された[3]。
ストーンズの出現は、最初のアーバンブルースの世界的な人気の高まりの象徴の一つであった。バンド名はシカゴブルースの巨匠、マディ・ウォーターズの"Rollin' Stone"にちなんで、当時リーダーであったジョーンズが命名した[4]。ストーンズの活動継続と関連に関して評論家のロバート・パーマーは、彼らは「より短命なポップ・ファッションが現れたり消えたりしている」間、「リズム・アンド・ブルースとソウル・ミュージックの中で伝統的な真実に根ざしている」ことによると語っている[5]。初期のレパートリーではリズム・アンド・ブルースとブルースのカヴァーが多くを占めていたが、その中にはいつもロックンロールが含まれていた。
代表曲として「サティスファクション」「一人ぼっちの世界」「黒くぬれ!」「タイム・イズ・オン・マイ・サイド」「ルビー・チューズデイ」「夜をぶっとばせ」「悪魔を憐れむ歌」「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」「ホンキー・トンク・ウィメン」「ブラウン・シュガー」「ダイスをころがせ」「悲しみのアンジー」「ミス・ユー」「スタート・ミー・アップ」など、多数のヒット曲がある。
1950年代初め、キース・リチャーズとミック・ジャガーは幼なじみであり、双方の一家が引っ越すまでダートフォードのウェントワース・プライマリースクールでの級友であった[6]。1960年、シドカップ・アートカレッジの学生であったリチャーズとロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの学生であったミックがダートフォード駅で再会する。ミックが持っていたチャック・ベリーとマディ・ウォーターズのレコードで、お互いの興味が明らかになって友情が復活し、ディック・テイラー(後にプリティ・シングスのメンバーとなる)を加えてのバンド「リトル・ボーイ・ブルー・アンド・ザ・ブルー・ボーイズ」結成につながる[7][8]。3人はアーリング・ジャズクラブでアレクシス・コーナーの「ブルース・インコーポレイテッド」のステージにゲスト出演していたブライアン・ジョーンズのスライドギターを目の当たりにして衝撃を受ける。ブルース・インコーポレイテッドには、後にストーンズのメンバーとなるイアン・スチュワートとチャーリー・ワッツも参加していた[9]。
イアンは練習場所を見つけ、ブライアンと共に加入し、バンドはシカゴ・ブルースを演奏するようになった。名前も決定していないバンドはミック、ブライアン、イアンに加え、ミックが強要して加えたキースと共に最初のリハーサルを行った。リハーサルには、ギタリストのジェフ・ブラッドフォードとヴォーカリストのブライアン・ナイトも参加したが、2人はミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの曲を演奏することに異論を述べ、バンドへの加入を拒否した[10]。1962年6月のラインアップはミック、ブライアン、キース、イアン、ディック、及びドラマーのトニー・チャップマンであった。キース曰く、ブライアンが「ジャズ・ニュース」紙との電話の間にバンド名を決定したという。バンドの名前を尋ねられたブライアンは、床にあったマディ・ウォーターズのレコードを見て、その中の1曲「ローリン・ストーン」をバンド名にした[11][12][13]。
1962年7月12日、バンド名はマーキー・クラブそのままに「ザ・ローリン・ストーンズ The Rollin' Stones」として最初のギグを行った[14]。ラインナップはミック、キース、ブライアン、エルモ・ルイス(ギター)、ピアノにイアン、ベースにディック、ドラマーはミック・エイヴォリー(後にキンクスに加入)であった。ブライアンとイアンはシカゴ・ブルースを演奏したがったが、ミックとキースが好むチャック・ベリーやボ・ディドリーの演奏にも同意した[15]。ビル・ワイマンは1962年12月に加入し、チャーリー・ワッツは翌月の1963年1月に説得されて加入、バンドのリズム体が確定した[7][16]。ビルがメンバーに引き込まれた理由が、「当時、大出力のベースアンプを所有していたから」という、ジョーク交じりの他メンバーのインタビューもあった。当時のマネージャーであったジョルジオ・ゴメルスキーは、クロウダディ・クラブに日曜日の午後のステージを固定した。ゴメルスキーはクロウダディ・クラブが「ブルースの国際的なルネッサンス」の引き金となったと語った。マージー・ビーツ・ブームの到来と共に、ゴメルスキーはクロウダディでのショーを「スウィンギン・ロンドン」の到来の有力な側面と記した[17]。
ビートルズのパブリシストであったアンドリュー・ルーグ・オールダムがバンドのマネージャーに就任したが、彼は19歳とバンドのメンバーより若く、エージェントのライセンスを取得するのが不可能であった。従って、アンドリューの母が息子に代わってサインをし、オールダムとベテランのブッキング・エージェントであるエリック・イーストンの間の協力関係が築かれた[18][19][20][21]。ゴメルスキーはバンドとの契約書を交わしておらず、オールダムがマネージャーになることは相談されなかった[22]。オールダムはバンド名の綴りを "The Rollin' Stones" から "The Rolling Stones" へ変え、リチャーズの姓も「もっとポップに見えるから」と「リチャード」と変えさせた[23][24]。スチュワートはオールダムの構想に合わず、ワイマンによれば「かわいくてやせっぽちの長髪の少年は1963年5月にメンバーから外されロードマネージャーとなり、1985年に死ぬまでバンドのピアニストを担当した。」[25][26]とのことであった。
彼らは新しい演奏、作曲とレコーディングの完全なコントロール、マスターテープの所有権に対するロイヤリティとして当時の典型に対して三倍の額を得ることができた[27][28]。またデッカとの契約でオールダムはデッカのスタジオでは無くリージェント・サウンド・スタジオを使わせることにした。リージェントはモノラルの設備で、音響処置のため天井は卵ケースが貼り付けられ、都合の良いスタジオとなった[29][30][31]。オールダムはレコーディング経験はほとんど無かったがストーンズのプロデューサーとなり、リージェントについて「音が漏れ出て、楽器から楽器へ、正しい方法で」音楽が作り出される「雑音の壁」と言った[28][32]。リージェントの使用料は低額で、バンドは当時一般的であった3時間分を予約する代わりに、長期間にわたってレコーディングや練習を続けることができた。イギリスでのファーストアルバムでは全ての曲がリージェントで録音された[33][34]。
オールダムはストーンズが独立スタジオを使用していることを音楽雑誌に宣伝し、EMIに管理されたビートルズよりも「独立」した存在であることをアピールした。オールダムは「普通の人たち...スタジオでは男たちのために汗をかく。」と語っている[35]。オールダムはイギリスのファーストアルバムでは微笑まないメンバーの写真を使い、「あなたの娘をストーンズと結婚させたいか?」[36]という挑発的な見出しを載せ、結局ビートルズの不快な対照としてバンドを宣伝することを止めた。オールダムはバンドに同じスーツを用意したが、メンバーは公式の場にカジュアルな服装で現れるのに戻った[37]。ビルによれば、「俺たちの評判とイメージが悪ガキだってのは後からやってきた。それは完全に偶然で、アンドリューが仕込んだ物じゃない。彼は単にそれを徹底的に利用しただけさ。」と語っている[38]。
デビューシングル、チャック・ベリーのカバーである「カム・オン」は1963年6月7日にリリースされた。ストーンズは同曲をライブで演奏するのを拒否し[39]、デッカは宣伝の広告看板を1枚だけ買い上げた。オールダムの指示でファンクラブの会員がシングルを購入し[40]、「カム・オン」はイギリスのシングルチャートで21位に上昇した[41]。シングルがチャートインしたことでバンドはロンドンの外で演奏する機会が与えられ、7月13日にミドルズブラのアウトルック・クラブでホリーズと共演することとなる[42]。その年の後半にオールダムとイーストンは、ボ・ディドリー、リトル・リチャード、エヴァリー・ブラザースといったアメリカのミュージシャン達をサポートする初のUKツアーを計画した。この1963年秋のツアーは経験の少ないバンドにとってステージの「トレーニンググラウンド」となった[28][43][44]。
このツアーの間にストーンズはセカンドシングル、「彼氏になりたい」を録音した。この曲はレノン・マッカートニーによるもので、イギリスで12位を達成した。3枚目のシングル、バディ・ホリーの「ノット・フェイド・アウェイ」は、1964年2月にリリースされ、3位を記録した。
オールダムの提案でミックとキースは共同で曲を作り始めた。最初の曲を彼は「めそめそした模倣」と評した[45]。曲作りのペースが進まなかったため、ファーストアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ』(アメリカでは『イングランズ・ニューエスト・ヒットメーカーズ』)の収録曲はカバーが大半で、ジャガー・リチャーズのオリジナルは「テル・ミー」のみであった。また、2曲のクレジットは「ナンカー・フェルジ」と記載された。これはバンド全員のペンネームであった[46]。
1964年6月に行われた最初のUSツアーは、ビル・ワイマンによれば「災害」であった。「俺たちが到着したとき、俺たちにはそこでのヒットレコードもその他の物も持っていなかった。[47]」ツアーはそのほとんどがガラガラという状況であったが、ストーンズは積極的にメディアへの露出・ライヴ活動を行った。ディーン・マーティンのバラエティショー「ザ・ハリウッド・パレス」では、マーティンはバンドの演奏と髪型をからかった[48]。このツアーの間にバンドはシカゴのチェス・スタジオで2日間のレコーディングを行い、マディ・ウォーターズを含む多くのミュージシャンから大きな影響を受けている[49][50]。これらのセッションで録音された曲には、初のイギリスナンバー1となったボビー・ウーマックのカバー、「イッツ・オール・オーヴァー・ナウ」も含まれた[51]。アメリカでの成功が本格化していない頃、本国イギリスならびにヨーロッパではすでに人気が高まっており、イギリスではファーストアルバムが12週連続No.1に輝いている。
1964年8月にはオランダのスヘフェニンゲンでコンサートを行うが、観客が乱闘を始めたため約15分で中止となった。
1964年にリリースされた『T.A.M.I.ショー』ではジェームス・ブラウン & ザ・フェイマス・フレームスに続いて収録された。ミックは2003年に「俺たちは実際にはジェームス・ブラウンの後には演奏していないよ。なぜならそれぞれのセクションの撮影の間には1時間の間があったからなんだ。それにもかかわらず、彼はそのことにすごくイライラしていた...」と語っている[52]。10月25日にバンドは「エド・サリヴァン・ショー」に出演した。その際に巻き起こした騒動で、サリヴァンは以降彼らの出演を禁止した[53]が、後に再び出演している[9]。アメリカでのセカンドアルバム『12×5』はこのツアーの間にリリースされている[54]。本作もファーストアルバム同様に大半の曲がカバーであったが、オリジナル曲も増加した。
イギリスでの5枚目のシングル、ウィリー・ディクスンのカバー「リトル・レッド・ルースター」は1964年11月にリリースされ、2枚目のイギリスNo.1となる。これはブルース曲として初のNo.1であった。アメリカでのディストリビューターであるロンドン・レコードは「リトル・レッド・ルースター」のシングルリリースを拒否した。ロンドンは1964年12月にジャガー・リチャーズのオリジナル曲「ハート・オブ・ストーン c/w ホワット・ア・シェイム」をリリースした。「ハート・オブ・ストーン」はアメリカで19位となった[55]。
セカンドアルバム『ザ・ローリング・ストーンズ No.2』は1965年1月にリリースされチャート1位となり、アメリカ盤は2月に『ザ・ローリング・ストーンズ・ナウ!』がリリース、チャート5位となる。アルバムはシカゴのチェス・スタジオおよびロサンゼルスのRCAスタジオで録音された[56]。1965年の1月から2月にかけてバンドはオーストラリアとニュージーランドで34回のショーを行い、100,000人が動員された[57]。
ジャガー/リチャード名義で作曲した曲で(当時、キース・リチャーズはファミリー・ネームをリチャードと名乗っていて、1970年代後半にリチャーズに戻した)、最初にイギリスのシングルチャート1位になったのは「ラスト・タイム」(1965年2月)であり、同曲はアメリカでは9位であった。キースは後にこの曲を「ストーンズにとって作曲について考える橋渡しとなった曲だ。それは俺たちに信用のレベルを与え、どのようにやっていくかの小道となった。」との認識を語った[58]。バンドにとっての初の世界的ナンバー1ヒットは「サティスファクション」であり、同曲は1965年5月、3回目の北米ツアーの間に録音された。ファズで歪ませた特徴的なギターリフで始まり、キースはホーンセクションをガイドにしようと思い描いた。オールダムは意見を異にし、ホーンをオーバーダブせずに「サティスファクション」をリリースした。「サティスファクション」は1965年6月にアメリカでリリースされ、全米で4週連続No.1となる。以後、このソングライターチームによって何曲もの大ヒットナンバーを生んでいる[58][59]。
アメリカ版『アウト・オブ・アワ・ヘッズ』(1965年7月)もチャートNo.1となる。同作には7曲のオリジナル(ジャガー・リチャーズ名義が3曲、ナンカー・フェルジ名義が4曲)収録された[60]。ストーンズの世界的No.1となった2番目の曲「一人ぼっちの世界」は1965年秋にリリースされ[9]、続いてアメリカで『ディッセンバーズ・チルドレン』がリリースされた[54]。
1966年4月(アメリカは6月)にリリースされた『アフターマス』(イギリス1位;アメリカ2位)は、ストーンズにとって全曲がオリジナルとなった初のアルバムであった。このアルバムでブライアンはギターとハーモニカばかりでなく多くの貢献を果たした。中東からの影響を色濃くした「黒くぬれ」ではシタールを演奏し、バラードの「レディ・ジェーン」ではダルシマーを演奏した。また、「アンダー・マイ・サム」ではマリンバを演奏した。そして、12分にも及ぶ「ゴーイン・ホーム」はトップセラーのロックアルバムに収録された初のジャムセッションとして注目された。
ストーンズのイギリスおよびアメリカにおけるシングルチャートでの成功は1966年にピークに達した。「19回目の神経衰弱」(1966年2月、イギリス2位;アメリカ2位)の後には最初の英米ナンバー1の「黒くぬれ」が続いた。「マザーズ・リトル・ヘルパー」(1966年6月)はアメリカでのみシングルリリースされ、8位となった。同曲は麻薬乱用問題に言及した初のポップソングの一つであった。この曲でミックは通常使うアメリカ南部のアクセントよりも自身の自然なロンドン訛りで歌っている。
1966年9月の「マザー・イン・シャドウ」(イギリスの5位;アメリカ9位)はいくつかの点で注目に値した。ストーンズの曲で初めてブラスセクションを取り入れ、ジャケット裏の写真は女装したメンバーの物であった。また、ピーター・ホワイトヘッドによって初のプロモーションフィルムが作られた。
1967年1月、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』(イギリス3位;アメリカ2位)がリリースされる。本作はアンドリュー・オールダムがプロデューサーとして関わった最後のアルバムであった(バンドマネージャーとしての役割は1965年にアラン・クレインに引き継がれていた)。アメリカ版では両A面シングルの「夜をぶっとばせ c/w ルビー・チューズデイ」が収録され、アメリカでは1位、イギリスでは3位となった。バンドはニューヨークで「エド・サリヴァン・ショー」に出演、「夜をぶっとばせ」を演奏したが、歌詞を「let's spend some time together」に変えるよう要請された[7][61]。
1967年の前半、ミック、キース、ブライアンは気晴らしで始めた麻薬に対して「ニュース・オブ・ザ・ワールド」紙が「Pop Stars and Drugs: Facts That Will Shock You」と題した3部構成の記事を発表した後、当局による摘発を受ける。記事ではザ・フーのピート・タウンゼントやクリームのジンジャー・ベイカーらが参加したムーディー・ブルースが主催したLSDパーティについて述べ、トップスター達が薬物を使用していることを暴露した。最初の記事ではドノヴァンがターゲットにされ(すぐ後に摘発され罰金刑を受ける)、第2回(2月5日発行)でストーンズがターゲットにされた[62]。
記事の提供者はロンドンの高級クラブ、ブレーズで一晩を過ごしたが、そこでストーンズのメンバーは数個のベンゼドリンの錠剤を所持し、ハシシのかけらを示し、彼の住居に仲間を誘ってそれを吸ったとされた。記事ではこれはミック・ジャガーのことであるとしたが、これは間違いであったとされた。事実提供者はこれはブライアン・ジョーンズのことであるとした。記事が発表された夜、ミックはエイモン・アンドリュースのトークショーに出演、同紙を名誉毀損で訴えると発表した[62]。
1週間後の2月12日日曜日、サセックス警察はキースの運転手からの内通を受けて[63]、レッドランズのキースの自宅で行われていたパーティを捜査した。逮捕者はいなかったものの、警察は麻薬容疑の証拠品を押収、後にミックとキースおよび友人の画商ロバート・フレーザが告発された。キースは2003年に「レッドランズで警察に捕まったとき、俺たちはこれが全体の異なったボールゲームであり、楽しみが止まったんだと突然分かったのさ。その時までそれは、まるでロンドンが自分が欲しいときにできた美しい空間に存在しているかのようだったんだ。[64]」警察の捜査責任者は後に加えた。「私がそれを聞いたとき、彼は2度と同じように歩かなかった。[63]」
この節の加筆が望まれています。 |
1970年、バンドはアラン・クレインおよびデッカ・レコードとの契約を終了した。クレインとの契約紛争の間に、バンドは自らのレーベル、「ローリング・ストーンズ・レコード」 (Promotone BV) を設立した。同レーベルからの第1弾作品として『スティッキー・フィンガーズ』(イギリス1位;アメリカ1位)を1971年3月にリリースした。アルバムジャケットはアンディ・ウォーホルがデザインした。同作には「ブラウン・シュガー」「ワイルド・ホース」が収められたが、これらは1969年のアメリカン・ツアー中にアラバマ州のマッスル・ショールズ・サウンド・スタジオで録音されたものであった。アルバムはブルースの影響を強く受けた前2作の路線を引き継いでいた。その特徴として「ルーズで、今にも崩れそうな雰囲気[65]」を持ったアルバムであり、また、ミック・テイラーが完全参加した初のアルバムでもあった。
『スティッキー・フィンガーズ』のリリース後、バンドは金融面での勧告を受ける。高率課税に辟易したミックとキース、ビルの3人はフランス南部へ移住。バンドは移住直前にイギリスで「フェアウェル」ツアーを行った。キースはヴィルフランシュ=シュル=メールに家を借り、メンバーや友人達と生活した。バンドはモービル・ユニットを使い、地下室でレコーディングを行った。そのマテリアルは最終的にロサンゼルスのサンセット・スタジオで編集が行われ、2枚組アルバム(CDでは1枚)『メイン・ストリートのならず者』(イギリス1位;アメリカ1位)として1972年5月にリリースした。評論家ロバート・クリストゴーはこのアルバムをA+と評価し[66]、レスター・バングズはこのアルバムに低評価を与えたが、数ヶ月の内にその評価を一転させ、『ならず者』はストーンズの最高傑作の一つであると認めている[67]。アルバム発表後、3年ぶりの全米ツアーを行った。その頃に撮影された映画『コックサッカー・ブルース』(未公開)と『レディース・アンド・ジェントルメン』(1974年)はツアーのドキュメンタリーであり、テリー・サザーンも出演している。
1972年11月、バンドはジャマイカのキングストンでセッションを始める。『山羊の頭のスープ』(イギリス1位;アメリカ1位)は1973年にリリースされた。シングル「悲しみのアンジー」は世界的なヒットとなり商業的には成功したが、生ぬるく容認された最初のアルバムであった[68]。本作のセッションでは数多くのアウトテイクが生じ、例えば「友を待つ」の初期バージョンも録音されていた。同曲は8年後に『刺青の男』で発表された。
レコーディングはドラッグに関する別の法廷闘争で中断された。それはフランス滞在当時までさかのぼり、キースの逮捕令状も発行され、他のメンバーは証言のためフランスに戻らなければならなかった[69]。これと平行してミックのドラッグに関する裁判(1967年および70年[70])が行われ、73年初めに予定されていたパシフィック・ツアーの計画を複雑な物とした。日本公演は前年に発表されていたが、メンバーの麻薬所持による逮捕歴や、ビートルズ来日の時のような混乱を避けるためという理由により、入国許可が下りず、チケットが完売していたにも関わらず、公演が直前になって中止に。その後、1990年の初来日までストーンズのライヴは夢のまた夢といわれていた。キースは6月にイギリスで逮捕された[71]。その後3年ぶりのヨーロッパ・ツアーはフランスを迂回して、9月から10月にかけて行われた。
バンドはミュンヘンのミュージックランド・スタジオで次回作のレコーディングを行う。アルバム『イッツ・オンリー・ロックンロール』(イギリス2位;アメリカ1位)は1974年にリリースされたが、ジミー・ミラーは麻薬の問題もありプロデューサーを降りていた。代わってミックとキースが「グリマー・ツインズ」としてプロデュースを行った。アルバムのタイトルナンバー「イッツ・オンリー・ロックンロール」は名義こそジャガー/リチャーズになっているものの、実際にはロン・ウッドが作曲し、ミックが詞をつけるという意外な形で完成された。これは、同曲が元々ロン・ウッドがソロアルバムのレコーディングのために曲を作っていたため。“たかがロックンロール、でも俺はそれが好きなんだ”というストーンズの意気地ともいえる歌詞は、ロン・ウッドの自宅にきて酒を飲み交わしていた際にミックとフェイセズのメンバーであるケニー・ジョーンズとの口論から生まれたという。これが原因なのか定かではないが、同曲のヴォーカルはミックとケニーの二人がとっている。これは結果的に、後のメンバー昇格する要因の一つだったと思われる(ジャガー/リチャーズ/ウッドという共同名義で作曲をしているものがある)。
1974年の終わり頃になると、テイラーはメンバーとして我慢がならなくなっていた[72]。バンドの状況は複雑な物になっており、互いに異なった国に住み、法的な問題が正常なツアーを制限するようになっていた。加えて、キースは薬物使用が進み、そしてテイラーは自身の創造的な貢献が認められていないと感じていた[73]。年末、ミュンヘンでのセッションの間にテイラーはストーンズを脱退した[74]。1980年に彼は「僕は少しうんざりするようになっていた。僕は自分のギタリストとしての範囲を広げて、他に何かしたかった。...僕は当時、本当は歌を書いたり作ったりしていなかった。僕はちょうど書き始めていたんだ。そして、それは僕の決定に影響した。...頂きから頂きへとずっと渡っていける何人かの人がいる。彼らは他の誰かの成功に沿って乗ることができる。そして、それが十分でない何人かの人々もいる。僕は本当にそれが十分でなかった。」と語っている[75]。
1975年、テイラーの後任ギタリストを探すため、ミュンヘンで後に「グレイト・ギタリスト・ハント」と呼ばれるオーディションを行った。このセッションに招待されたのは、後にメンバーとなるロン・ウッドの他、ハンブル・パイのリード・ギタリストであったピーター・フランプトン、ジェフ・ベック、ロリー・ギャラガー、ウエイン・パーキンス、ハービィ・マンデルなどがいた(ジェフとロリーは当初、オーディションだったことを知らなかったと語っている。また、彼らは決して加入に同意しなかったろうとも語っている)。シュギー・オーティスもこのセッションに参加したが、加入には至らなかった。パーキンスとマンデルのプレイは、『ブラック・アンド・ブルー』(イギリス2位;アメリカ1位)に収められた。しかしながらキースとミックは、ストーンズを純粋なブリティッシュバンドのままにしておきたかった。ロンがオーディションを受けると、満場一致で決まった[76]。
ロンとキースは、すでにレコーディングやライヴで共演しており、「イッツ・オンリー・ロックンロール」の作曲およびレコーディングに貢献していた。彼は、ミックのオファーをフェイセズとの絆を理由に断っており、「それは本当に俺にとって重要だった」と語っている[77]。ロンは、ストーンズの75年北米ツアーへの参加を公約したが、それはロッド・スチュワートがフェイセズを正式脱退し解散したことを受けてであって、諸説はありながらもこの時点を「ロンのローリング・ストーンズの加入」とする説が一般的である。他のストーンズのメンバーとは異なり、およそ20年後にビルが脱退するまでバンドからサラリーを受ける立場であった。ビルの脱退後、ロンはバンドの収益面でもストーンズの正式メンバーとなった。
1975年北米ツアーはニューヨークのブロードウェイにおいて行われたトレーラーのステージ上でのライブで始まった。サポート・メンバーとしてロン(ギター)、ビリー・プレストン(キーボード)、オリー・ブラウン(パーカッション)などが参加した。公演によっては、イアン・スチュワート(ピアノ)が参加している。ステージには巨大なファルスとロープが現れ、ミックは聴衆の上でそれを揺り動かした。ミックはトロントのエル・モカンボ・クラブでのライブレコーディングを設定し、その様子はバンド久々のライブ盤となった『ラヴ・ユー・ライヴ』(イギリス3位;アメリカ5位)に収められた。
1976年3月に、ロンのストーンズへの正式加入が発表され、同時にツアーも発表された。4月、前年のメンバーのままヨーロッパ・ツアーを行うと同時に、ロン正式加入後初のアルバム『ブラック・アンド・ブルー』がリリースされた。
しかしツアー中のキースは、ヘロインによる依存症状がかなり悪化し、公演中に居眠りや、ホテルでは禁断症状が出て心臓が停止しかけるなど、アクシデントが後を絶たなかった。それを見ていたロンは、警察をごまかしてわざわざヘロインを調達して来たというエピソードがある。ストーンズはツアーの締めとしてネブワース・ロック・フェスティバルに出演し、25万人を超える聴衆の前で演奏した。
1977年2月、キースはトロントへの到着が遅れた。他のメンバーはすでにトロント入りし彼を待っており、キースに対してどこにいるのかと尋ねる電報を送っている。2月24日、アニタ・パレンバーグと共にトロントに到着したキースは税関によって足止めされた。荷物の中からカナビス10グラムとヘロインの形跡が発見されたためであった。アニタは逮捕されたが、出廷を約束し釈放された。その3日後、アニタの逮捕状を持った王立カナダ騎馬警察がキースの部屋を訪れ、22グラムのヘロインを発見した[78]。キースは麻薬密輸の罪で告発される[79]。後に検察官は、キースがカナダ到着後にヘロインを入手したと認めた[80]。バンドはエル・モカンボ・クラブという小さなクラブでの2回のライヴのためにカナダを訪問し、その際に起こった事件だった。ライヴの様子はアルバム『ラヴ・ユー・ライヴ』に収録された。同時にこのカナダ訪問では、当時の首相ピエール・トルドーの夫人、マーガレット・トルドーとのスキャンダルがあり、マーガレットがショーの後にバンドとのプライベート・パーティに出席したことが判明するとより多くの論争が巻き起こった。バンドが行った2回のライヴは公には告知されず、エル・モカンボはその週全部をカナダのバンド、エイプリル・ワインのレコーディングで予約されているとしていた。ローカルラジオ局の1050 CHUMが、エイプリル・ワインの無料ライヴチケットをラジオ番組のコンテストの当選者に配布していた。当選者達は金曜日と土曜日に行われたライヴで、ローリング・ストーンズがステージに現れたのを見て驚いていた[81]。
3月4日、アニタは空港での一件に関して罰金を命じられた[81]。キースに対する裁判は1年以上長引くこととなった。結局は執行猶予を受け、オシャワで2回のチャリティ・コンサートを行うよう命じられた[80]。2つのコンサートは共にローリング・ストーンズとニュー・バーバリアンズ(ロニーが最新のソロアルバムをプロモートするために結成したバンドにキースが加わったグループ)の共演で行われた。この一件でキースはヘロインの使用を止めようと固く決心することとなった[7]。また、3番目の子ども(タラ)の死以来張り詰めていたアニタとの関係の終焉にも大きく影響した。さらにアニタはキースがヘロインを止めようと努力していた際も、ヘロインに耽溺するのを止めることはできなかった[82]。キースが法的および個人的な問題を解決しようとしていた間、ミックは飛び回る生活を続けていた。彼はニューヨークのディスコクラブ、スタジオ54の常連で、しばしばモデルのジェリー・ホールと訪れていた。ビアンカとの結婚生活は長年の別居の後1977年に終了した[83]。
ストーンズは70年代前半からの人気を維持していたが、評論家達はバンドの勢いが衰えたと言い、レコードの売り上げも期待外れになった[9]。70年代後半にパンク・ムーブメントが生じると、その支持者はストーンズを退廃的で年老いた金持ちの音楽であり[7]、停滞して無意味であると批判した[84]。これは1978年になると一変した。アルバム『女たち』(イギリス2位; アメリカ1位)がリリースされ、「ミス・ユー」「ファーラウェイ・アイズ」「ビースト・オブ・バーデン」「シャッタード」がシングルカットされた。これらはパンク・ムーブメントでの批判に対する返答とされ、大半がテンポの速い単純なギタードライヴのロックンロールであった[84]。アルバムの成功は若年層の人気回復に貢献した。アルバム発表と同時に全米ツアーが始まり、バンドはプロモーションとして「サタデー・ナイト・ライブ」に出演した。バンドは翌年のヨーロッパツアーは行わず、1967年以来3年ごとに行っていたツアーのルーチンは破られた。
1979年4月、裁判所の命令に従ってチャリティ・コンサートをオシャワ・ホールで開く。ニュー・バーバリアンズはよくキースがリーダーだと誤解されているが、実際はロンであり、メディアがこぞってキースに注目したためと思われる。バーバリアンズは、5月いっぱいまで全米ツアーを行った。メンバーはロン(ヴォーカル&ギター)、キース(ギター&ヴォーカル)、イアン・マクレガン(キーボード&ピアノ)、スタンリー・クラーク(ベース)、ジョセフ・モデリステ(ドラムス)、ボビー・キーズ(サックス)。このツアーの模様は、ロンが設立したレコード会社よりライヴ・アルバム(L.A.公演のもの)として、2006年になってようやく日の目を見た。またロンは、来日公演も考えたという。
『女たち』の成功に続いて、ストーンズは1980年中頃に『エモーショナル・レスキュー』(イギリス1位; アメリカ1位)を発表した[85]。このアルバムの録音は、ミックとキースの関係が悪化したため混乱に陥ったとされる[85]。キースは未だにヘロインを使用していたとイアン・マクレガンは語った[86]。キースはまたアルバムのプロモーションとして80年の夏か秋にツアーを行いたがったが、ミックはこれを拒否した[85]。『エモーショナル・レスキュー』はアメリカとヨーロッパで共に1位となり、シングル「エモーショナル・レスキュー」はアメリカで3位となった[85]。
1981年初めにバンドは再結集し、その年に全米ツアーを行うことを決定した。その年前半の僅かな時間でアルバムを作成し、ツアーのリハーサルを行った。『刺青の男』(イギリス2位; アメリカ1位)は8月31日にリリースされ、このアルバムより先行シングルで、ミックに「80年代の代表曲」といわしめた「スタート・ミー・アップ」がリリースされ、アメリカで2位、ビルボードのその年のチャートでは22位を記録した。2つの曲、「友を待つ」(アメリカ13位)「トップス」ではミック・テイラーがギターをプレイした。一方「奴隷」と「友を待つ」ではソニー・ロリンズがサックスをプレイした。また、「ハング・ファイヤー」もビルボードのチャートで20位を記録した。3年ぶりとなる全米ツアーは公演の規模が70年代のツアーとは破格の規模であり、9月25日から12月19日まで行われた。ツアーそのものは非常にエネルギッシュで、それまでと比べると(麻薬の影響もあっただろうが)かなり新鮮味のあるツアーとなっていた。同ツアーはその年の最高を売り上げたツアーとなり、いくつかのショーは録音された。その模様は翌年にライヴ・アルバム『スティル・ライフ』(イギリス4位; アメリカ5位)として発表された。また、1983年にはハル・アシュビーによって映画『レッツ・スペンド・ザ・ナイト・トゥゲザー』として公開された。この映画にはアリゾナ州テンピのサン・デヴィル・スタジアム、ニュージャージー州メドウランズのブレンダン・バーン・アリーナでの公演が収録された。
1982年中頃、バンド結成20周年を記念するため、6年振りとなるヨーロッパ・ツアーを開始。前年の全米ツアーを踏襲した物であった。このツアーで、元オールマン・ブラザーズ・バンドのチャック・リーヴェルがサポート・メンバーとして加わる。このヨーロッパ・ツアーを最後に、ストーンズは1989年までライヴ活動を休止することとなる。年末までにバンドは新しいレーベル、CBSと4作のアルバムのリリースを2,800万ドルで契約した。
アトランティックとの契約を終える前の1983年後半に、ストーンズは『アンダーカヴァー』(イギリス3位; アメリカ4位)をリリースした。好意的なレビューとタイトルトラックのトップ10入りにもかかわらず、アルバムの売り上げは期待に外れ、サポートのツアーも行われなかった。新たなレーベル、CBSレコードがアトランティックの旧譜を引き継いだ。
このアルバムのセッションの頃から徐々にメンバー内の人間関係が悪化(81〜82年のツアー中にもそれはミックとキースとの間に現れ始めているが)し始め、ミックはCBSとソロ契約を結び、キースはこれに対して驚きを感じていた。そして、ミックは最初のソロアルバムのために1984年の大半を費やすこととなった。また、彼はストーンズの枠組みの中で無意味にされると感じていたと述べている[87]。1985年までにミックはソロレコーディングに多くの時間を費やし、ストーンズの1986年のアルバム『ダーティ・ワーク』(イギリス4位; アメリカ4位)では多くの曲がキース作の物であり、以前のアルバムよりロンが多くの貢献をした。本作はパリで録音され、キースがレコーディングを続けて先に進めたのに対しミックは休みがちであった[88]。
1985年6月、ミックはデヴィッド・ボウイと共に「ダンシング・イン・ザ・ストリート」を録音、プロモーションビデオを撮影した。これはライヴエイドのチャリティ・ムーブメントの一環として行われた物であった[89]。これはミックの最初のソロ・パフォーマンスの一つで、同シングルはイギリスで1位、アメリカで7位を獲得した[90][91]。1985年12月、バンドの共同設立者でありキーボードを担当していたイアン・スチュアートが心臓発作により死去した。47歳であった。バンドは1986年2月、グラミー賞、ライフタイム・アチーブメント賞を受賞する2日前にロンドンの100クラブでプライベートの追悼コンサートを行った[31]。
ミックのソロ活動、チャーリーのアルコールやドラッグ依存で人間関係がギクシャクしていた中、キースがうまくとりまとめ製作した『ダーティ・ワーク』は1986年3月にリリースされた。同作はアメリカでのトップ5ヒットとなった「ハーレム・シャッフル」が収録されていたにもかかわらず賛否両論の評価を受けた。また、前年に死去したイアン・スチュアートの短いピアノが最後に収録されている。キースとミックの関係は最悪で、ミックはアルバムプロモーションのためのツアーを拒否し、代わりにストーンズナンバーを含んだ自身のソロツアーを行った[92][93]。キースはこの期間のミックとの関係を「第三次世界大戦」[94]と呼んだ。バンド内のギクシャクした人間関係の結果、ストーンズはほぼ解散状態であった[92]。ミックのソロ『シーズ・ザ・ボス』(1985年、イギリス6位; アメリカ13位)と『プリミティヴ・クール』(1987年、イギリス26位; アメリカ41位)はある程度の成功を得た。そしてストーンズが不活発なままの1988年にメンバーの中で唯一ソロ活動をしていなかったキースがついに自身のバンド、エクスペンシヴ・ワイノーズを結成し、ソロ活動を開始、最初のソロアルバム『トーク・イズ・チープ』(イギリス37位; アメリカ24位)を発表した。同作はファンと評論家から好意的に受け入れられ、アメリカではゴールドアルバムを獲得した[95]。
1989年前半、ロックの殿堂入りした[96]。ミックとキースは憎しみを超えてニューアルバムの製作を働きかけた。実に3年ぶりとなるアルバム『スティール・ホイールズ』(イギリス2位; アメリカ3位)はストーンズの氷河期の終わりを告げるものだった。シングルは「ミックスト・エモーションズ」(アメリカ5位[97])、「ロック・アンド・ア・ハード・プレイス」(アメリカ23位[97])、「オールモスト・ヒア・ユー・サイ」(アメリカ50位[97])がリリースされた。中でも「ミックスト・エモーションズ」はメンバーの和解を象徴するナンバーであり、人間関係の悪化より停滞していたバンド活動の停止に終止符を打つこととなった。また、「コンチネンタル・ドリフト」は1989年にモロッコのタンジールで録音され、マスター・ミュージシャン・オブ・ジャジューカが加わった。コーディネートはトニー・キングとシェリー・ナッティングが行い、BBCのドキュメンタリー「ザ・ローリング・ストーンズ・イン・モロッコ」がナイジェル・フィンチによって製作された。
アルバムのリリースに続き、8年ぶりとなる全米ツアー、日本・ヨーロッパなどを含むワールド・ツアー(北米及び日本では「スティール・ホイールズ・ツアー」、ヨーロッパでは「アーバン・ジャングル・ツアー」と銘打たれた)を開始。ツアーの実施告知がイベント化したのもこの頃からである。前座はリヴィング・カラーとガンズ・アンド・ローゼズなどが担当し、バンドにはホーンセクション、バックアップシンガーのリサ・フィッシャー、バーナード・ファウラーが加わった。同ツアーからのライブアルバム『フラッシュポイント』(イギリス6位; アメリカ16位)がリリースされた。同作には新曲2曲「ハイワイアー」「セックス・ドライヴ」が含まれた。また、同ツアーからIMAX仕様のライブフィルム「アット・ザ・マックス」が1991年に公開された。加えて同ツアーでは東京ドームでの初来日公演が実現した。麻薬常習などを理由に、以前は日本政府から許可が降りなかったもので、その後も何度か来日を果たすこととなる。
このツアーはビル・ワイマンにとって最後のツアーとなった。ビルはストーンズを脱退したが、1993年1月まで脱退を公式に発表しなかった[98]。彼はその後バンドの歴史を綴った「ストーン・アローン」を出版した。数年後にはリズム・キングスを結成し、再びレコーディングとコンサートツアーを始めた。
スティール・ホイールズ / アーバン・ジャングルツアーの成功後に、バンドは休息を取った。チャーリー・ワッツは2枚のジャズアルバムをリリースした。ロニー・ウッドは11年ぶりに5枚目のソロ・アルバム『スライド・オン・ディス』をリリースした。キース・リチャーズは1992年後半に2枚目のソロ・アルバム『メイン・オフェンダー?主犯?』(イギリス45位; アメリカ99位)をリリースして、スペインとアルゼンチンでの大規模コンサートを含む小ツアーを行った。ミック・ジャガーは3枚目のソロ・アルバム『ワンダーリング・スピリット』(イギリス12位; アメリカ11位)をリリースし、セールスの成功と高評価を得た。同作は世界中で200万枚以上のセールスを記録し、アメリカではゴールドアルバムを獲得した[95]。
1993年1月のワイマン脱退後、ストーンズはヴァージン・レコードと契約し、ライブアルバム3枚を除く『スティッキー・フィンガーズ』から『スティール・ホィールズ』までの旧譜をリマスターの上再発、コンピレーション『ジャンプ・バック』(イギリス16位; アメリカ30位)をリリースした。1993年までにストーンズは次のスタジオアルバムの製作に入った。マイルス・デイヴィスおよびスティングのサイドマンを務めたダリル・ジョーンズがワイマンの代わりとしてチャーリー・ワッツによって選ばれ、『ヴードゥー・ラウンジ』のレコーディングに参加した。同アルバムはイギリスで1位、アメリカで2位を獲得し、高評価および高売り上げを達成、アメリカでダブル・プラチナを獲得した。ワイマンが脱退した反動からか、ベースを中心とした低音重視の音作りをしており、曲調も新人バンドに戻ったような瑞々しさのある曲が多く、評論家はアルバムの「トラディショナリスト」な音に注目した。これは新たなプロデューサーのドン・ウォズに依るところが大きかった[99]。同作は1995年のグラミー賞ベストロックアルバムを獲得した。
アルバムの発売に伴い、1994年から95年にかけてヴードゥー・ラウンジ・ツアーが実施された。様々なコンサートおよびリハーサルからの録音(多くはアコースティックナンバー)が編集され、『ストリップド』(イギリス9位; アメリカ9位)がリリースされた。同作ではボブ・ディランのカヴァー「ライク・ア・ローリング・ストーン」がフィーチャーされ、それまでライブではあまり演奏されなかった「シャイン・ア・ライト」、「スウィート・バージニア」、「クモとハエ」といった曲が収められた。1994年9月8日、ストーンズはニューヨークのラジオシティ・ミュージックホールでMTVビデオ・ミュージック・アワーズに出演、「ラヴ・イズ・ストロング」と「スタート・ミー・アップ」を演奏した[100]。バンドは授賞式でライフタイム・アーカイヴメント賞を受賞した[100]。
ストーンズはインターネット上でコンサートを中継放送した最初のメジャーアーティストであった。1994年11月18日に20分間のビデオがMboneを使用して、1秒間当たり10フレームで放送された。放送はThinking Picturesが技術を担当し、サン・マイクロシステムズが出資して行われた。この放送はストリーミング・ビデオの最初のデモンストレーションの1つであり、本当のネット配信ではなかったが、多くの技術が紹介された[101]。
ストーンズの90年代を締めくくった『ブリッジズ・トゥ・バビロン』(イギリス6位; アメリカ3位)は1997年にリリースされ、賛否両論の評価を得た。シングルカットされた「エニバディ・シーン・マイ・ベイビー? 」 のプロモーションビデオにはアンジェリーナ・ジョリーがゲスト出演し、MTVとVH1で何度も放送された。また、同年11月にリリースされたB.B.キングのアルバム『デューシズ・ワイルド』に収録された「ペイング・ザ・コスト・トゥ・ビー・ザ・ボス」のレコーディングには、ストーンズのメンバー全4人とサポート・メンバーのダリル・ジョーンズが参加した[102]。
アルバム『ブリッジズ・トゥ・バビロン』の売り上げは前作とほぼ同様(アメリカで約120万枚)となり、続いて行われたブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアーはヨーロッパを横断、北米を回ってその他の地域でも行われ、バンドが未だ強力なライブパフォーマンスを行えることを証明した。再びライブアルバム『ノー・セキュリティ』(イギリス67位; アメリカ34位)が本ツアーから編集されたが、収録曲は「リヴ・ウィズ・ミー」と「ザ・ラスト・タイム」以外はライブとしては未発表の曲ばかりであった。1999年にはアメリカでノー・セキュリティ・ツアーを開始し、ヨーロッパではブリッジズ・トゥ・バビロン・ツアーを継続した。ノー・セキュリティ・ツアーは近年の花火や巨大ステージのツアーとは対照的に簡素なステージで行われた。
ミック・ジャガーは2001年後半に4枚目のソロ・アルバム『ゴッデス・イン・ザ・ドアウェイ』(イギリス44位; アメリカ39位)をリリースしたが、賛否両論の批評を受けた[103]。アメリカ同時多発テロ事件の一ヶ月後、ミックとキースは「ザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティ」に出演、バックバンドと共に「地の塩」と「ミス・ユー」を演奏した。
2002年、バンドは結成40周年を記念した2枚組のベスト・アルバム『フォーティ・リックス』(イギリス2位; アメリカ2位)をリリースした。同作には新曲4曲が収録され、世界中で700万枚以上を売り上げた。同年、Q誌の「死ぬ前に見るべき50のバンド」の一つに選出された[104]。また、2002年から2003年にかけてフォーティ・リックス・ツアーが行われ、人々は死ぬ前に見るチャンスが与えられた。このツアーは小劇場やアリーナ、スタジアムでのコンサートが行われた。カナダのトロントでは「to help the city」と掲げたコンサートがモルソン・カナディアン・ロックス・フォー・トロントで行われ、SARSの流行で打撃を受けた都市に対する支援となった。バンドがトロントでコンサートを行ったのはスティール・ホイールズ・ツアーのリハーサル以来であった。コンサートは約49万人が動員された。
2003年11月9日、バンドは香港ハーバーフェストの一環として香港における最初のコンサートを行った。同月に4枚組DVDセット『フォー・フリックス』をリリース。バンドはこれを独占的に販売する権利をベスト・バイに与え、それを受けていくつかのカナダとアメリカにおける小売店(HMVカナダとサーキット・シティー・ストアーズを含む)ではストーンズのCDとグッズが棚から撤去され、事情を説明する札が掲示された[105]。12月12日、ミックはバッキンガム宮殿においてチャールズ皇太子からナイトの称号を授与された。2004年にはリックス・ツアーの模様を収めた2枚組アルバム『ライヴ・リックス』(イギリス38位; アメリカ50位)がリリースされ、アメリカでゴールドアルバムを獲得した[95]。2004年11月にはイギリス音楽の殿堂入りの候補となった[106]。
2005年7月26日、ミックの誕生日にバンドは8年ぶりのニューアルバムのタイトルを『ア・ビガー・バン』と発表した。『ア・ビガー・バン』は9月6日にリリースされ、ローリング・ストーン誌を始めとして熱烈なレビューが行われた[107]。シングル「ストリーツ・オブ・ラヴ」はイギリスとヨーロッパでトップ15のヒットとなった。
収録曲「スウィート・ネオ・コン」は、ミックによるアメリカのネオコンに対する批判が含まれた[108]。伝えられるところによると、同曲はキースの反対によりアルバムから削除されるところであった。彼はイラク戦争批判のために論争に巻き込まれたディクシー・チックスのようになるのを恐れたのかと尋ねられ、アルバムが来るのが先だと答え、「俺はすこしの政治的な『コップの中の嵐』によって脇に逸らされたくない。」と発言した[109]。
アルバム発表に伴った「ア・ビガー・バン・ツアー」は2005年8月に始まり、北米、南米、東アジアで行われた。2006年2月、バンドはミシガン州デトロイトで行われた第40回スーパーボウルのハーフタイムでライブを行った。2005年末までにツアーの収益は1億6200万ドルを記録し、ストーンズ自身が1994年に記録した北米における最高収益を更新した。2006年2月18日にはリオデジャネイロのコパカバーナ・ビーチで無料コンサートを行い、150万人の観客動員となった。
2006年3月から4月にかけて日本、中国、オーストラリア、ニュージーランドでの公演を行い、ストーンズはヨーロッパ・ツアー前の休暇に入った。この間にキースはフィジーで木から落下、7.5メートル下の砂浜に叩きつけられニュージーランドの病院に入院した[110][111][112]。この事故によりヨーロッパ・ツアーは開始が6週間遅れることとなった[113][114]。2006年6月、ロン・ウッドがアルコール依存症の治療を続けていることが伝えられた[115][116]。しかしながら、再編成されたヨーロッパ・ツアーの日程に影響を与えることは無かった。2006年7月から9月まで21公演が予定されたが、その内2公演はミックの咽喉の問題によりキャンセルされた[117]。
2006年、北朝鮮の金正日の息子・金正哲が招請したエリック・クラプトンコンサートの平壌開催が実現しなかったため、韓国側からローリングストーンズの平壌公演が打診され、メンバーも開催に肯定的だったとされた。しかし、北朝鮮側から逆に「退廃的すぎる」とされて実現しなかったと伝えられた[118]。
2006年9月から北米ツアーのセカンド・レグが始まり、2007年6月5日からヨーロッパツアーのセカンド・レグが始まった。2006年11月までにツアーは4億3700万ドルの収益を上げ、当時の最高額を記録したツアーとなった。北米ツアーは1億3850万ドルの収益を上げ、ストーンズ自身が2005年のツアーで達成した1億6200万ドル、同年のU2のツアーが達成した1億3890万ドルに次いで史上3位を記録した[119]。
マーティン・スコセッシが2006年10月29日と11月1日のニューヨーク、ビーコン・シアターでのライブを撮影し、ドキュメンタリー映画「ザ・ローリング・ストーンズ シャイン・ア・ライト」として公開された。同作にはゲストとしてバディ・ガイ、ジャック・ホワイト、クリスティーナ・アギレラが出演している[120]。映画のサントラ盤『シャイン・ア・ライト』は2008年4月にリリースされ、イギリスで2位、アメリカで11位を達成した。これはストーンズのライブ盤として、1970年の『ゲット・ヤー・ヤ・ヤズ・アウト』以来の高順位であった。ビーコン・シアターでのショーではアトランティック・レコード元会長のアーメット・アーティガンがステージ裏で転倒、頭部を強打し2週間後に死亡した[121][122]。
2007年3月24日にバンドはヨーロッパ・ツアー「ビガー・バン2007」を発表した。2007年6月12日に4枚組DVD『ザ・ビッゲスト・バン』がリリースされた。同作は7時間に及ぶドキュメンタリーで、オースティン、リオデジャネイロ、埼玉、上海、ブエノスアイレスでのコンサートが収められた。6月10日にバンドはワイト島でのコンサートを行い、65,000人を動員した。8月26日、ツアー最終公演がロンドンのO2アリーナで行われた。ストーンズはツアー全体で5億5800万ドルの収益を上げ、ギネス世界記録に申請したことが発表された[123]。
ミック・ジャガーは2007年10月2日に未発表3曲を含むソロ・コンピレーション『ヴェリー・ベスト・オブ・ミック・ジャガー』(イギリス57位、アメリカ77位)を発表した。11月12日にアブコは2枚組CD『ロールド・ゴールド〜ヴェリー・ベスト・オブ・ザ・ローリング・ストーンズ』をリリースした。これは1975年のコンピレーション『ロールド・ゴールド』の再編集盤であり、イギリスで26位を獲得した。
ツアーからおよそ2年後の2007年のインタビューでミック・ジャガーは、バンドの引退時期を語るのを拒否した。「僕はローリング・ストーンズがより多くのこと、より多くのレコード、そしてより多くのツアーを行えると確信している。僕たちはそのいずれも止める計画は無い。僕の考えとしては、僕たちが続けられると確信している。[124]」2008年3月にキース・リチャーズは『シャイン・ア・ライト』のプレミアでのインタビューで新しいスタジオ・アルバムを用意しているかもしれないという噂を引き起こした。「俺は俺たちが別のアルバムを作るかもしれないと思うよ。この映画のプロモーションをする上で俺たちはもう一度やるよ。」チャーリー・ワッツは仕事を中断したときはいつも体調不良のためだったと述べた[125]。2008年7月、ローリング・ストーンズはEMIとの契約を終了し、ユニバーサル ミュージックと契約したと発表した。『スティッキー・フィンガーズ』以降のアルバムはユニバーサル傘下のポリドール・レコードから再発された[126]。アメリカにおける1994年以前の作品の権利はマーキュリー・レコードが有し、1994年以降の作品の権利はインタースコープ・レコードが所有する。ユニバーサル ミュージックは『スティッキー・フィンガーズ』以前の作品の権利を有するアブコのディストリビューターでもある。
秋の間にミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ミック・テイラーは、プロデューサーのドン・ウォズと共に『メイン・ストリートのならず者』セッションにおける未完成曲へ新たなヴォーカルとギターのパートを録音した。
2010年4月17日、バンドは限定版の7インチアナログ・シングル、未発表曲の「プランダード・マイ・ソウル」をレコード・ストア・デイに因んで発表した。これは『メイン・ストリートのならず者』リイシュー盤に収録された1曲で、B面は「オール・ダウン・ザ・ライン」であった[127]。
4月23日、バンドはカンヌ国際映画祭に「ストーンズ・イン・エグザイル〜「メイン・ストリートのならず者」の真実」(スティーヴン・キジャック監督[128])のプレミアで参加すると発表した。同作は『メイン・ストリートのならず者』レコーディング時のドキュメンタリー映画であった[129]。
2010年5月23日、『メイン・ストリートのならず者』がリマスター盤として再発された。イギリスでは1位を達成し、これは同作が発表されて以来38年ぶりの記録であった。ストーンズは過去に発表した作品が再び1位を獲得した初のバンドとなった[130]。アメリカでは発売第1週で76,000枚を売り上げ、チャートでは2位を記録した。未発表曲10曲を加えた2CD版の『メイン・ストリートのならず者』の他に、未発表曲のみの『メイン・ストリートのならず者(レアリティーズ・エディション)』もリリースされ、27位を記録した[131]。
2010年10月11日、「レディース&ジェントルメン」が公開され、後にDVDでリリースされた。デジタル・リマスターが行われ、アメリカ国内では特別の映画館で公開された。本作はザ・ローリング・ストーンズ・アメリカン・ツアー1972でのフォートワースとヒューストンでの4つのショーを編集したものであり、『メイン・ストリートのならず者』がフィーチャーされている。当初は1974年に公開されたが、その後はビデオなどでのリリースは行われず、数多くの海賊版として流通していた[132]。
2011年4月19日、ストーンズとも交流のある英国ピアニストのベン・ウォーターズが発起し制作されたイアン・スチュワートへのトリビュートアルバムにメンバー全員が参加し、脱退したビル・ワイマンがレコーディングに、ミックー・テイラーが記念コンサートに参加した。
2011年10月4日、ストーンズは「サム・ガールズ・ライヴ・イン・テキサス'78」を公開した。本作もデジタル・リマスターが行われ、アメリカ国内では特別の映画館で公開された。内容は『女たち』リリース後のUSツアー1978におけるフォートワースでのショーを収録したもので、11月15日にはブルーレイ/DVDがリリースされた[133]。
2011年10月18日、オフィシャルブートレグシリーズのデジタルダウンロード販売を、グーグル・ミュージック及びストーンズ公式通販サイト「STONES ARCHIVE」上で開始。第一弾として、1973年ヨーロッパツアーの模様を収めた非公式ライブアルバム「ブリュッセルズ・アフェア」を、ボブ・クリアマウンテンのリミックスを経て公式の下にリリース。以後も1年間に亘り、1981年アメリカツアー、1975年アメリカツアー、1990年ジャパンツアー、2005年カナダシークレットギグ、1982年ヨーロッパツアーが順次リリースされた。
ストーンズは2012年夏に結成50周年を祝って、ハードカバーの写真集「50」をリリースした[134]。バンドの象徴的なイメージである唇のロゴも新しいバージョンが使用された。
メンバーは2012年か2013年にワールドツアーを行う用意があると広く報じられた。7月にはキースがリハーサルを行ったことを認め、ミックも2012年の秋には再びステージでパフォーマンスを行うだろうと語った[135][136]。
7月13日から8月27日までロンドンのサマセット・ハウスで無料の写真展も開催された。
9月にはブレット・モーガンが監督するHBOのドキュメンタリーが公開されることとなった[137]。このプロジェクトは2012年3月にローリング・ストーン誌で告知された。このドキュメンタリーでは「バンドがクラブで演奏していた時代から世界最大のバンドに達するまで」を記録すると言われている[138]。約50時間におよぶインタビューが行われ、その中には元メンバーのビル・ワイマンやミック・テイラーへのものも含まれた。監督のモーガンは「彼らが今までに行った中で最も大規模なグループインタビュー」であると語った[139]。これは1988年に結成25周年を記念して作られた『25x5』以来のドキュメンタリーとなる。
2012年8月30日、新たなドキュメンタリーのタイトルが『クロスファイア・ハリケーン』になることが明らかにされた。これは1968年のヒットシングル「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」の歌詞の一節から採られたものである。イギリスでは10月に劇場公開、年末にはBBC Twoで放送されるが、アメリカではHBOのプレミアだけが行われる。同作は2012年11月に全世界で劇場公開される[140]。
2012年8月30日、バンドが11月にロンドンのO2アリーナおよびブルックリンズ・バークレイズ・センターでライヴを行うという噂が立ちこめるようになった[141]。
2012年9月4日、ストーンズは新しいコンピレーション・アルバム『GRRR!』を11月12日にリリースすると発表した。このアルバムは4つの異なったフォーマットでリリースされ、新曲が2曲収められる。「Doom And Gloom 」「One Last Shot」の2曲はパリのウィリアム・テル・スタジオで8月の数週間で録音された[142][143]。
2012年9月7日、バンドは『クロスファイア・ハリケーン』のロンドン、レスター・スクウェアにおける10月18日のプレミアに出席することが発表された[144]。
2012年11月より、『50&Couning Tour』をスタート。各公演にゲストを招いており、ビル・ワイマン、ミック・テイラー、エリック・クラプトン、ジェフ・ベック、ブルース・スプリングスティーン、ジョン・メイヤー、デイヴ・グロール、ウィン・バトラー、フローレンス・ウェルチ、レディー・ガガらが参加している。
2013年6月、客演としてはバンド史上初となるロックフェスティバルでのステージに立つ(グラストンベリー・フェスティバル)。更に2013年7月には1969年以来44年ぶりとなるロンドン・ハイドパークでの公演を2度行い、ライブ音源のダウンロード発売を伴ってツアーを終了した。
正式メンバーではないが、キーボーディストのイアン・スチュワート(1938年 - 1985年)がいる。彼は、オリジナル・メンバーであったにも関わらず、正式デビュー直前にマネージャーのアンドリュー・オールダムから「顔つきがロックバンドとして相応しくない」との理由で正式メンバーから外されている。ストーンズのメジャーデビュー後は、ロードマネージャーとして関わったが、そのピアノやキーボードの腕前から、レコーディングやツアーには必ず参加しており、1960年代では実質的なメンバー扱いだった。1970年代に入って以降は頻度はやや減ったが『ダーティ・ワーク』までのアルバムに参加している。
他にもごく一時期に参加したメンバーや、長期に渡ってレコーディング・コンサートのサポートを務めているメンバーも存在するが、ローリング・ストーンズとしてロックの殿堂入りを果たしたのは以上の8人である。
ローリング・ストーンズの音楽的ルーツは、黒人音楽のブルースにある。デビュー曲の「カム・オン」はチャック・ベリーのカバーである。彼らがデビューした1960年代初期、アメリカにおいてはまだまだ黒人に対する差別が根強く、「ブルースのレコード・ジャケットには、黒人の顔写真を載せてはならない(黒人ミュージシャン本人の顔写真を含む)」という慣習のある州さえ多かった。こうした時代にイギリス出身の白人のグループでありながら、黒人の音楽であるブルースを心から尊敬し、影響を受け、黒人になりきって歌や演奏に表現しようとしたバンドがローリング・ストーンズである。彼らは更にブルースだけでなく、モータウンやスタックスといったレコード会社に代表される、同時代の黒人音楽も吸収した。
ローリング・ストーンズの活躍は、黒人音楽にルーツをもつ、他の白人ミュージシャンが1960年代後半から1970年代初頭にかけて、米英などで多数登場するきっかけとなったともいえる。
ローリング・ストーンズのサウンドの欠かせない特徴として、その独特のリズムがある。本来バンドであればドラムとベースの絡みが重要といわれているが、ストーンズは違う。そのリズムの核となるのは、チャーリー・ワッツのドラムス、キース・リチャーズが弾き出すリズム・ギターにある。この2人が絡むことで、その独特のリズムが生まれている。ギターがドラムと絡み合うことで、当然ベースも独特な演奏をしていて、サウンドの核となるキースのギター・ラインと、そのギターに絡もうとする他の楽器パートの隙間を、まるで縫い合わせていくように弾いていることに特徴がある。キースのギターが中心となってバンドの音を引っ張っていっていると言ってもいいそのサウンドは、まさに唯一無二である。しかし、1993年にビル・ワイマンが脱退して以来、そのリズムが変わって、サポート・メンバーであるダリル・ジョーンズの弾くベースはより安定したものながらも、それに古くからのファンは「不満」があるようである。
ローリング・ストーンズは、様々な流行の音楽をも取り入れ、一部のメンバーの交替や、様々なアクシデントを乗り越えつつ成長し、デビュー40周年を超えた21世紀に至ってもなお、ブルース(リズム・アンド・ブルース)ルーツのロックンロールという音楽で、第一線で現役を貫き通している。
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