1. 抱きしめたい / I Want To Hold Your Hand 2. シー・ラヴズ・ユー / She Loves You 3. フロム・ミー・トゥ・ユー / From Me To You 4. ツイスト・アンド・シャウト / Twist And Shout 5. ラヴ・ミー・ドゥー / Love Me Do 6. ベイビー・イッツ・ユー / Baby It’s You 7. ドント・バザー・ミー / Don’t Bother Me 8. プリーズ・プリーズ・ミー / Please Please Me 9. アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア / I Saw Her Standing There 10. P.S. アイ・ラヴ・ユー / P.S. I Love You 11. リトル・チャイルド / Little Child 12. オール・マイ・ラヴィング / All My Loving 13. ホールド・ミー・タイト / Hold Me Tight 14. プリーズ・ミスター・ポストマン / Please Mr. Postman
鮎川誠ロック塾第15章、
「初期のストーンズとビートルズ (London Vs. Liverpool)」
★初めに
今夜もロック塾にお集りの皆さん。いつもありがとう。
今日のテーマは塾長の松本康の案内文がすべてを語ってくれているので、今一度見ていただきたい。
『鮎川誠ロック塾第15章、間を置かず開催。鮎川先生、乗っている。今回のテーマは「初期のストーンズとビートルズ (London Vs. Liverpool)」です。鮎川誠のあまり具体的に語られない初期のインスピレイションがザ・ビートルズです。前回明らかにされたローリング・ストーンズからの影響に続き、その同時代のビートルズからの感化は何か。両者の、先人や同時代の音楽に対するリスペクトと返答。それぞれのカヴァーの仕方、さらにそこから発展したオリジナル曲の魅力に迫ります。
副題は「ロンドン対リヴァプール」とあるが特に地域性を多角的に分析するのではない。だがローリング・ストーンズの『第一集』のレコードの帯が「これがリヴァプール・サウンドの決定盤!!」とあった。でもその間違いは今では明白だが、鮎川先生にその違いを解説してもらう。興味津々で、楽しめて、ためになる鮎川塾、今回も盛況必至。
まだ参加したことのない人、是非参加を。いつからでも入れて楽しめる、親しみやすく興味深い鮎川誠の世界に貴方を誘(いざな)いたい !』
このように紹介をしていただきありがたい限りですw。
さて今回のテーマはビートルズ対ストーンズ、先日テレビで放送されたTOKYO SESSION, これは今五反田メッセで開催中のストーンズ展のアンバサダーをチャー、シシド・カフカとともに俺もご指名を受け広報の一環として出演したローリングストーンズの曲をプレイするライブ&トーク番組ですが、その日限りのセッションということで、その日までは各メンバーとの選曲の打ち合わせをメールでやっただけで、それぞれ自主トレをやって当日、土屋アンナとベース、井上富雄、キーボード、堀江の6人でせーのでやったけれど俺は最高に満足しました。メンバー全員のアンテナの感度が高く、ストーンズへの愛も強く最高にかっこいい演奏ができました、初めて一緒に音をだしているのに息の合い方は奇跡かと思うほどでした。これこそがストーンズ・マジックやね。番組用にバンドの名前を付けようということになり、俺の提案した「THE SATISFACTIONS」が採用されました、いい名前やねーw。
その時、ストーンズを語る場面でチャーが「昔はビートルズ派とストーンズ派にわかれていた」と言っていましたが本当にそうでした。ストーンズやキンクスなどは売り出し方もビートルズに対抗意識まるだしでした。音楽ファンはラジオでチャートを聞き、ストーンズは恐そうで嫌いだ、とか、ビートルズは真面目臭くてつまらないとか、みんな真剣に語り合っていました。俺はその時でも今でもどっちもすごいバンド、どっちも好きたいと思っていたけれど、たとえばクラス全体でみると97対3ぐらいでビートルズが優勢でした。
★日本盤のオリジナルにこだわるわけ。
昔シーナが何かのインタビューで「ビートルズがロックのドアはここよ、と示してくれて、ストーンズがそのドアを開けてカモーンといったのよ」と、うまいこと言うてくれた。思い出すたびに胸がスーとします。シーナ&ロケッツも「COME ON」がレコーディングのはじまりです。
そして前回のロック塾ではストーンズの日本上陸とそれを体験した俺の思いを語りました。楽しい思い出ばかりですが、それに欠かせなかったのが日本で独自の選曲と、アルバムタイトルまで第五集などと勝手につけて(笑)、リリースされた日本盤でした。俺はレコードを繰り返し聞き、ライナーノートをむさぼり読んでもっと知りたい、ストーンズに近づきたいと必死でした。そのうち、かっこいい輸入盤が出回り始め、次第に日本盤は外国と足並みをそろえだし、半年遅れのリリースとかもなくなり、一時日本盤はステータスが下がりました。今はダウンロードとかもあり、レコードそのものも過去の遺物化されてとてもさみしいですが、ロックが好きなこだわりのあるJUKEや頑張ってる評論家やDJや愛好家の皆さんがその火を消さずに頑張っています。
日本盤には帯がついていてアルバムの売り文句が書かれていてそれだけでも情熱的であったし、ライナーノートはそのバンドを知るのに唯一の手掛かりでした。何度も聞くから、次の曲が始まる前に頭の中に先に音楽が始まるのです。
特にビートルズは東芝オデオン盤の日本盤デビューアルバムはいま、聞き直しても最高の選曲です。「抱きしめたい」から「シーラブズユー」「フロム・ミー・トゥ・ユー」から「ツイスト&シャウト」・・最後の曲「プリーズ・ミスター・ポストマン」まで、まるでベスト盤です。イギリスで出たファーストとセカンドアルバムには「抱きしめたい」から「シーラブズユー」も入っていなかったことを今回調べていて初めて知りました。
まあ、ここであんまりこだわるのも、タイムラインやその国のいろいろ事情もあったことだろうし、音楽は聴いて楽しむものであるから、この辺で音楽を聴きましょう。ただ、言いたかったのは日本盤はあの時代(1964年)にとても素晴らしい、いい仕事をやった、時代の文化に素晴らしい貢献をした、一言ねぎらいというか、称えたかったちゅうことです。
(Meet The Beatles!)
01. 抱きしめたい I Want To Hold Your Hand
02. シー・ラヴズ・ユー She Loves You
03. フロム・ミー・トゥ・ユー From Me To You
04. ツイスト・アンド・シャウト Twist And Shout (アイズレィーブラザーズのカバー)
05. ラヴ・ミー・ドゥー Love Me Do
06. ベイビー・イッツ・ユー Baby It's You (シュレルズのカバー)
07. ドント・バザー・ミー Don't Bother Me
08. プリーズ・プリーズ・ミー Please Please Me
09. アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア I Saw Her Standing There
10. P.S. アイ・ラヴ・ユー P.S. I Love You
11. リトル・チャイルド Little Child
12. オール・マイ・ラヴィング All My Loving
13. ホールド・ミー・タイト Hold Me Tight
14. プリーズ・ミスター・ポストマン Please Mr. Postman (マーベレッツのカバー)
<日本オリジナル発売日:1964年4月15日*>
★俺がビートルズに出会ったとき
前回特集した初期のストーンズは最高にかっこよくて大好きですが、俺は最初はビートルズです。そして、今年2019年の先日はそのリンゴスターが博多サンパレスにやってきましたね、俺は見ることができなかったが、知って音を聞いて写真を見て「ジョン・ポール・ジョージ・リンゴ」の名を覚えて、ファンになって55年後に福岡にいるなんて夢のようにすごいことです。リンゴが登場して一曲目は「マッチボックス」でした。その光景を友人のフェイスブックの投稿で動画をみて感動しました。初めて聞いた時とおんなじ、相変わらずご機嫌なロックンロールでした。リンゴもノリノリでした。俺が高校3年のころには、「スロー・ダウン」と、この「マッチボックス」がカップリングでシングル盤がとても売れていた。友達の家に行くとたいがい、おいてあった。あと、「のっぽのサリー」と「アイ・コール・ユア・ネーム」のシングル、そして、「カンサス・シティ」「ロールオーバー・ベートーベン」「ミスター・ムーンライト」、武道館でも一曲目にやったチャックベリーの「ロックンロール・ミュージック」。ビートルズはロックンロールを日本にあっというまに広めました。
そして一方でチャートを駆け上がる「抱きしめたい」や「プリーズ・プリーズ・ミー」、アルバムに収録された「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」「オール・マイ・ラビング」やらのオリジナル、とてもビートがあってメロディも人懐っこくて、一曲一曲がユニークなひねりがきいている自作自演の名曲の数々に俺は深くビートルズの信者になりました。
ビートルズが日本にレコードで上陸したのは1964年の2月「抱きしめたい」で、イギリス・アメリカでは先に出ていた「プリーズ・プリーズ・ミー」が3月に(そこまでが俺は中学生)、そのころ毎日毎日FEN(米軍向け極東放送ラジオ)からビートルズが流れ出していた。2月初めにビートルズは初めてアメリカにわたり、エド・サリバン・ショウに4週連続で出演、これも大きな反響やったらしい、そのあおりで日本にも興味を持つファンが増えたのやね。俺が人の弁当箱を包んでいた前日の新聞のコラムを見て、FENラジオで耳で聞いていた、いまいち発音が聞き取れなかったBEATLESがカタカナで「ビートルズ」と書くのかと知ったのもこの頃です。
そして4月15日にこのデビューアルバム「MEET THE BEATLES」の発売でビートルズの正体、全貌が明らかになりました。高校入学直後やったわけです。だから、新しいクラスの仲間に始めって会った挨拶が「おまいはビートルズは知っとるか」やったわけです。
いつか昔に俺が書いたFM番組“WE WANT THE BEATLES!”のためのアンケートが出てきたのでよかったら見てください。ちょっと、よそ行き風に気取ったところもあるのですが、当時の思いを書いています。
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★エフエム・ココロ、“WE WANT THE BEATLES!”。
(お名前) 鮎川 誠 です。
(↓この問いかけを読み上げてから、お話しいただけますと助かります)
★1966年6月、ビートルズが来日したとき、どこにいて何をしていたか?
ということなんやけど、あのとき、俺はね
(以下の質問に答えるかたちで、お話を進めていただければyy)
▼1966年6月・・・何歳?
高校の3年生、誕生日も迎えていて18歳でした。
▼当時、暮らしていた街は?
福岡県の久留米市で生まれて、ずっとそこで暮らしていました。
▼高校生だった鮎川さん、どんな高校生活を送っていました?
街で一番の文武両道の受験校で勉強とスポーツもたのしみながら、音楽仲間と音楽を聴きあさり気に入ったアーティストのレコードを掘り下げていました。ビートルズの当時のヒット曲にジョージがリードボーカルをとる「ロール・オーバー・ベートーベン」という曲があり、作者、チャック・ベリーの歌詞の一節に「Dig These Rhythm And BLUES」というフレーズの「DIG」が深く掘り下げる、探求する」という意味だとしったからです。 ラジオのヒットチャートや雑誌などからの少ない情報とあとは空想とイマジンでたくさんのアーティストに出会いました。オートバイの仲間とツーリングなどもたのしんでいたなあ。
▼その頃、(ビートルズのほかに)よく聴いていた音楽はどんなもの?
ローリングストーンズ、アニマルズ、キンクス、ボブ・ディラン、バーズ、ゾンビーズ、デーブクラーク・ファイブ、サーチャーズ、ヤードバーズなど、イギリスの、アメリカの新しいロックンロールをきいていました。 もともと、ビートルズが出現する前から、リトル・リチャード、レイ・チャールズ、エルビス・プレスリー、ポール・アンカ、クリフ・リチャードとシャドウズ、ロネッツ、サム・クック、ラジオのヒットチャートなどきいていて中学時代から、ポップスとくにロックが大好きでした。
★“ビートルズ”に話を絞ると・・・
▼ビートルズの存在を知ったのはいつ頃、どんなかたちで?
中学三年の三学期、当時地元の米軍向けの放送、(基地の名にちなんで)板付放送と呼んでいたFENからとつぜん威勢のいいギターサウンドのロックンロールが流れ出した。バンド名の発音が最初正しく聞き取れなかったが、昼食の時間に隣のやつの弁当の包み紙の新聞のトピックスではじめてカタカナの「ビートルズ」という活字で合致した。
▼初めて聞いたビートルズの曲は?
BEATLESというバンド名が聞き取れなかったころにたぶん、「I Wanna Hold Your Hand」、「Please Please Me」「Love Me Do」「My Bonnie」「Sweet Georgia Brown」「Why」などFENでたくさんきいた。 日本のラジオではたぶん「抱きしめたい」「プリーズ・プリーズ・ミー」「シーラブズ・ユー」のどれかだと思う。
▼来日した頃のビートルズに対する思いは、最初に知った頃と変わっていませんでしたか?
1964年に「ビートルズがやってくる ヤーヤーヤー」をみて動く、しゃべるビートルズに心を奪われた。ファンに追っかけまわされる人気者の彼らのすばらしい音楽と自由な振る舞いに深く感銘を受けた。次々に発表されるビートルズのアルバムを聴くたびにその音楽制作の才能に驚嘆しました。
▼来日公演はご覧になりましたか? (武道館で観た/テレビで観た ・・・など)
高校の友人の家に仲間で集まってテレビの中継を見ました。 かたずをのんで食い入るように見ました。
▼来日公演に関する感想は?
ビートルズのステージに登場の仕方、一曲目の「ロックンロール・ミュージック」がはじまるまでの緊張感がたまらなかった。新曲「ペイパーバック・ライター」思いもしない選曲の「ベイビーズ・イン・ブラック」、ブルースフィーリングのあるジョン・レノンの「ディ・トリッパー」、ラスト曲のポールがシャウトする「アイム・ダウン」まで、最高に魅了された。俺のロックバンドのライブの原点になった。
▼ビートルズが自分に与えた影響を感じることはありますか?
(曲/演奏/ボーカル/存在/態度/ジョン・レノンのメガネ姿 ・・・など)
このビートルズの武道館公演は日本のすべてのロック好きに共有のビジョンが生まれたと思う。一ヵ月後、俺は名前も素性もよく知らない、ただビートルズを知っている、ストーンズも好き、というだけで出会った奴らと友達になりバンドに参加して初のバンド体験をして夏の納涼大会のプールサイドのステージでバンドデビューをした。俺のバンド人生はここから始まりました。
★(お名前をもう一度) yy以上、 鮎川 誠 でした。
----------- 引用終わり-----------
★俺の ”ビートルズ対ストーンズ” 選曲リスト
1.デビューシングル 「LOVE ME DO」 VS 「COME ON」
2.Stones Play Lennon-McCartney’s 「I WANNA BE YOUR MAN」
3.Same Old Song 「MONEY」
4.ラリー・ウィリアムス 「SLOW DOWN」 Vs 「SHE SAID YEAH」
5.アーサー・アレキサンダー 「ANNA」 Vs 「You Better Move On」
6.チャック・ベリー 「ROCK AND ROLL MUSIC」 Vs {TALKIN' ABOUT YOU」
7.チャック・ベリー 「ROLL OVER BEETHOVEN」 Vs 「CAROL」
8.Instrumental 「CRY FOR THE SHADOW」 Vs {STONED」
9.MOTOWN 「Please Mr. Postman」 Vs {HITCH HIKE」
10.1st No.1 HIT 「PLEASE PLEASE ME」 (Jan-63) Vs 「IT'S ALL OVER NOW」 (Jun-64)
ビートルズは日本より一年も早く、1963年1月に 「PLEASE PLEASE ME」 で一躍イギリスの人気者になったが、しばらくは先に決まっていたヘレン・シャピロの前座でパッケージツアーや、ブッキングしていたハンブルグのスタークラブのハコバンをやったりしていたが、ラジオの仕事も入りだし、合間にはレコーディングで多忙を極めていた。同じ時、ストーンズは1963年1月に最後のメンバー、チャーリー・ワッツがしぶしぶ参加してクラブでのギグをスタートした。リッチモンドのクラウダディ・クラブでのレギュラー・ライブでわかってるロンドンっ子の間で人気に火がついてすぐにストーンズはSWINGING LONDONの中心的なバンドにのしあがるが、まだレコードデビューはしばらく後のことだった。
聞いた話(年表には書かれているが、)では、1963年4月14日に多忙なビートルズがロンドンに来ていて、昼間にテレビ収録が終わり、久々に夜だけ自由時間を持てた。ビートルズ4人はうわさになっていたローリングストーンズを見るためにリッチモンドまでいって(わざわざ!)、彼らの演奏を聴いて気に入った。ジョージ・ハリスンは自分たちが前にオーディションに落ちたというのに、デッカ・レコードにストーンズを推薦したということだ。
これがビートルズとストーンズの初めての出会いだった。そしてその時同行していたのであろう、ビートルズの下でアシスタントで働いていた、アンドリュー・オールダムはストーンズと契約を取り付けてビートルズを退職して彼らのマネージャーになった。ジョージの進言やリンゴの絶賛コメントもあり、アンドリューの手腕もあり、2か月後にはストーンズはデビューシングル、チャック・ベリーのカバー「カム・オン」を1963年6月7日にデッカからリリースした。
また聞いた話では、このころ(だと思う)ストーンズの面々がビートルズに招待されてコンサートに遊びに行って、終わって楽屋から出たら、ファンの群衆からビートルズと間違えられて悲鳴が飛び交うすごい騒ぎになり、ブライアン・ジョーンズはその時のいい気分が忘れられずスター願望が一段と高まったということだ。「あんときからブライアンはおかしくなったのさ」というキース・リチャードの談があります。
ストーンズはカモンのシングルデビューでバンドとしても弾みがつき、クラブのバンドからツアーバンドに昇格してボー・ディドリー、ホリーズなどとツアーができるようになり、人気もますます高まって、ビートルズと同じ道を歩み始めた。1963年10月、ジョンとポールはそんな彼らのレコーディングに呼ばれて、目の前でささっと一曲作り、その「I WANNA BE YOUR MAN」を第二弾シングル (1963年11月1日) としてプレゼントした。ストーンズはびっくりたまげたが、ミックとキースのオリジナル曲を作曲する大きな刺激と恩恵を受けた。ただビートルズも同じ月にセカンドアルバム「With The Beatles」(Released: 22 November 1963)にリンゴのボーカルで収録して発表した。
このころストーンズはロネッツをゲストに迎えた秋の第二弾ツアーをやっていて、これが縁でこのあとフィル・スペクターを迎えてファーストアルバムのレコーディングがはじまった。
そして年表によると、ミック・キースとブライアンが3人で共同生活したエディス・グローブのアパート(フラット)を引き払いそれぞれがやっと独立して暮らし始めることになった。いま、ローリングストーンズ展ではその彼らが2年近く一緒に暮らしたフラットが居間やベッドルーム、キッチンが忠実に再現されている。ステレオの上にはニューポートのマディ・ウォーターズの聞きかけのレコードがさりげなく置かれていて、そのジャケットの下には、リトル・ウォルター、チャック・ベリー、山盛りの灰皿まで細部までとてもよくできていて、大変興味深いです、もしも見に行ける人はこのコーナーはおすすめです、ぜひご覧ください。
”ビートルズ対ローリング・ストーンズ” 結論から言うとロック史上、最大、最高の好敵手でもあったこの二つのバンド、ストーンズはビートルズに足を向けては寝られないほど世話になっていたのですね。ポールは俺がラリー・ウィリアムスをやつらに勧めたのさ、と言っていたのを、いま思い出した。
(おまけ)
先日、鮎川の記事が夕刊フジに掲載されました。コピーを添付したのでよかったら読んでください。
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「僕がギターを弾かんとシーナはがっかりする」シーナ&ザ・ロケッツ・鮎川誠 あふれる“ストーンズ愛”
夕刊フジ 4/11(木) 16:56配信
鮎川誠
「ロックはタイムレス。ストーンズだって、今の音楽。心のワンジェネレーション。いつでも今が最高」
黒い革ジャンに身を包み、サングラスをかけ煙草をくゆらせながら、シャイで知られる伝説のギタリストは訥々(とつとつ)と言葉を重ねた。
昨年、NHKの朝ドラ「半分、青い。」で代表曲「YOU MAY DREAM」が劇中歌として使われ、再び脚光を浴びた「シーナ&ザ・ロケッツ」。今年デビューして41年目を迎える。
1970年、当時“日本のリバプール”と呼ばれた福岡・博多でブルース・ロックバンド「サンハウス」を結成。後に“めんたいロック”と呼ばれるムーブメントの先駆けとなった。
やがて妻・シーナと上京。78年にシナロケとしてデビューして以来、常にロック界の第一線で活躍してきた。
しかし2015年、長年連れ添った妻をがんで亡くす。享年61。
「病気と闘いながら、シーナは最後までステージに立ち続けた。バンドを解散することも考えましたが、僕がギターを弾かんとメソメソしてたら、シーナはきっとがっかりする」
その言葉通り、17年には69(ロック)歳を記念して全国47都道府県ツアーを行い、自らギターを弾き、歌った。
そんな鮎川を支えているのが、ロック界の偉大な先達、ザ・ローリング・ストーンズの存在だという。
「中学の頃、みんなビートルズ、ビートルズ言うとった。自分だけのお気に入りがほしくてFEN(米軍極東放送)から流れるストーンズの『ノット・フェイド・アウェイ』を聞いた。リズムが大胆で激しく、暴れ太鼓みたいでぶっ飛んだ」
街中のレコード屋を回って友達3人でお金を出し合いファーストアルバムを手に入れる。今でもA面「テル・ミー」、B面「かわいいキャロル」のドーナツ盤をよくかけていると言う。
高校の修学旅行をキャンセルして、その積立金で友達からギターを譲り受け弾くようになる。そしてビートルズが来日した1966年の夏。生まれ故郷である福岡県久留米市の「サマービート66 エレキ祭り」で初めてステージに立った。
「『ロックン・ロール・ミュージック』を始め、ビートルズが来日公演で演奏した曲に加えて、ストーンズの『一人ぼっちの世界』を演奏したことが自慢やった。ストーンズは自ら“ブルースの伝道師”を名乗る通り、多くの黒人音楽をリスペクトしている。ロックン・ロールのドアであり、ブルースの入り口なんよ」
それだけに、90年の初来日は忘れられない。
「88年にアルバム『ハッピー・ハウス』をニューヨークでレコーディングした際、参加してくれたホーン・セクションがストーンズのツアーに同行していて、その縁でバックステージにも遊びに行ったとよ」
この時の目撃談は今や伝説となっている。音楽プロデューサーの細野晴臣と忌野清志郎が恐る恐る入っていくと、何とギタリスト、キース・リチャーズの膝の上にシーナが乗っていたというのだ。
もしストーンズと一緒に演奏するとしたら?
「やっぱり『サティスファクション』かな。ジャガー/リチャーズによる最初の大ヒット曲。シナロケも、最初からずっとやってきた」
あふれる“ストーンズ愛”。開催中の「Exhibitionism ザ・ローリング・ストーンズ展」(5月6日まで)のアンバサダーも務めている。これまで世界6カ所で行われ、100万人以上を動員したビッグイベントだ。
「生きとるバンドでこんなことするのはストーンズくらい(笑)。ロックで皆さんに会えるのが最高!」
もうすぐ71歳。ロックな魂はまだまだ誰にも負けない。(ペン・島右近 カメラ・宮川浩和)
■鮎川誠(あゆかわ・まこと) 1948年5月2日、福岡県久留米市生まれ。70歳。九州大卒。妻でボーカルのシーナとロックバンド「シーナ&ザ・ロケッツ」を結成し、78年に「涙のハイウェイ」でメジャーデビュー。翌79年に発売した「YOU MAY DREAM」が大ヒット。2015年2月にシーナを亡くした後も、精力的にバンド活動を行う。4月28、29日、5月2日と新元号移行をまたぐ「鮎川誠生誕71年祭」を京都、名古屋、東京で開催予定。鮎川の生誕日に合わせ、東京・日比谷野外大音楽堂(14年9月)で行った「35周年記念ライブ」をDVDとして初リリースする。