photo: with Wilco Johnson Band

「新しいROCKが次々と生まれる。古いもんは死ぬまでやる。」



1977年、伝説のBand"サンハウス"解散。
そのときシーナはサンハウスの一番のファンであり、鮎川の妻として、その瞬間を見ていた。

それから、どのくらい過ぎただろうか…、久々の静かな日々をおくる鮎川にひとつの仕事が舞い込んだ。

鮎川がある新人歌手のために作った歌をスタジオでレコーディングしてたの。その子、なかなかうまく歌えないのよ。 私、マイクを取り上げてたわ。 

(シーナ)

シーナが突然歌いだした。そのとき、それはパンクだった。
与えられたことをやってる奴と、心から夢を追う奴は違う。凄いと思った。 

(鮎川 誠)

そして、この偶然の出来事が、鮎川の運命を動かした。

しかし、お互いが最高のパートナーを見つけた跡も、夫婦でBandを続けられるのか、 葛藤があったという。が、練習の日々のなか、二人でやることが自然なことに変わっていった。 鮎川はRock`n Rollを続けるために「Sheena & The Rokkets」を結成。
以来、日本はもとより、NewYork、Londonとインターナショナルな活動を続けている。

最近の例をとると、93年末、NewYorkのCBGB20周年記念ライブに出演。 94年2月には、LondonでWilco Johnson Bandとレコーディング、そして日本ツアー。
話題作りとしてレコード会社がこのようなブッキングをお膳立てすることは業界ではよくある。 しかし、シナロケに限ってはこの常識は当てはまらない。 CBGBのライブは、以前出演したときに知り合った経営者から直接、 東京の鮎川邸に電話が入ったというし、Wilco Johnson Bandとの共演も、 数年前にWilko 達が来日したときツアーサポートをしたことを縁に交流が始まり、 実現したレコーディングであり今回のツアーだったのだ。

シナロケは、"ROCKサウンド"そのもので、無理なく世界に通用する数少ない日本ミュージシャンの一つである。
サディスティック・ミカ・バンド、YMO、サンディ・サンセッツ、そしてシナロケ。
彼らには、東洋の…とかいう、言い訳のような紹介文はいらない。正々堂々とROCKで世界と勝負できる。 まして外国人とのセッションは難しく、得てして、取ってつけたように、どちらかが浮いてしまうものだが、 シナロケは外国のミュージシャンと同じステージの上に立ってもサウンド、ビジュアルともに全く引けをとらない。
まるで生まれたてのROCK BANDのように、ひとつになってしまうのだ。

BANDはセンスのいいBANDがカッコイイ。 カバーする曲を選ぶとき、そんなことからもセンスがわかってしまう。 

(鮎川 誠)

外国人に引けを取らないのにも、当然の理由がある。まだROCKがごく一部の不良達だけの音楽として隔離されていた頃、 彼のお手本となるBANDは日本に存在しなかった。

それが幸いして、彼は外国に目を向ける。
鮎川は様々な曲をコピーし、自分のキャリアとテクニックに厚みを加えてきた。 当時は、情報も少なく、苦労して手に入れた輸入盤レコードは、針が擦り切れるまで聴き、コピーした。

ROCKとは与えられるものではなく、どん欲に勝ち取るものだった。

俺達がSTONESの曲を最初に聴いたのは、サンハウスのステージからだった。

(山部  善次郎)

こうした活動から、自然に音楽的センスが鮎川に宿り、血液の中にまで染み込んでいった。
そして、サンハウスの存在感と同様、彼らのコピーした曲も、後にヤマゼン、MODS、ロッカーズへと受け継がれ、 博多ミュージックに大きな影響を与えることとなる。

高三の夏休み、日本中を旅してまわった。自由を見つけるための旅だったわ。 北九州だった私は、最初に博多に立ち寄ったの。そのとき、川端の『ヤングキラー』というダンスホールで初めてサンハウスを見たの。 「えっ、ここは博多? 日本?」って。 場所がわからなくなるくらい彼らはカッコよかった。

(シーナ)

もし、サンハウスがサンフランシスコの青々とした大空を思い浮かべるようなサウンドを選んでいたとしたら、 シナロケは勿論、ヤマゼン、MODS、ロッカーズなどは生まれてこなかったに違いない。

そして、シーナと鮎川の出会いも、日本のミュージックシーンにとって幸運な出来事だった。

シーナは、サンハウスを見たときに受けたショックを、難なく身にまとい、与える側へと変身した。
そして、御機嫌なステージをつくる、最高のROCK BAND・シーナ&ロケッツの誕生。 以後、日本という狭い枠に納まることなく、媚びないROCKでストレートに突き進む。

彼らが日本のROCK番組に出演し、ROCK BANDと呼ばれる連中の中に並んだとき、なぜかシナロケは浮いてしまう。
本物の音楽に育てられたセンスを持つシナロケと他のBANDとはあきらかに違う事を見せつけるかのように。

実際、彼らの前に立った時に感じるインパクトは息が止まってしまうほど痛烈だ。 それこそ、「ここは日本?」と、めまいがしそうなくらいカッコいい。 ……と言って、シナロケは日本を、まして博多を否定してはいない。むしろ逆だ。

その街だからこそ生まれた音楽が皆の誇りだった。

(鮎川 誠)

「ルーツが何処であるかということを、明らかにしておくのがROCKだ。」と言い切る鮎川。 彼の作り出したサウンドは、博多に生まれ、博多に受け継がれた。
彼の残した業績は偉大だ。

しかし、鮎川、シーナの存在感の大きさとは裏腹に、
なぜか " ROCK BAND・シナロケ " は100%メジャーとは言い難い。

それは、ROCKを聴く側の世代が未成熟のためだ。

TVや街に溢れる和製ROCK。
現代の若者は、そんな簡単に手に入る情報、繰返し流れてくるサウンドだけを聴いて育っているチープゼネレーション。

アンテナを、あと少し広げるだけで、もっといかしたROCKにたどり着くことを知らない。

そんな、可愛そうな彼らに、本物のROCKを教えてあげたい。

そのサウンド、その精神が博多に影響を残したように、
日本中にシーナ&ロケッツの名が知れ渡る日が近いと信じたい。

新しいROCKが次々と生まれる。
古いもんは死ぬまでやる。

(鮎川 誠)

(ベロ)





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